「流行歌」の版間の差分

リンク付け
(リンク付け)
近現代日本での大衆歌謡の発祥は、明治維新直後までさかのぼることが出来る。
 
江戸時代の節をつけた瓦版売り「読売」の伝統が、自由民権運動の政治批判・宣伝に用いられ、[[川上音二郎]]の「[[オッペケペー節]]」をきっかけに[[壮士演歌]]として発展、社会問題を扱った「ダイナマイト節」「東雲節」、条約改正問題の「ノルマントン号沈没」、社会風刺の「のんき節」、文芸物の「不如帰」などが[[添田唖蝉坊]]らによって作られた。日露戦争前後から、庶民の心情がテーマになり、演歌が艶歌とも言われるようになった。これらの歌はすべて自然発生的なもので、「商業性」を旨とする昭和流行歌の性質には程遠いものであったが、神長瞭月ら演歌師と呼ばれる人々がバイオリンの伴奏で歌って人気を集め、書生節の隆盛による大衆歌謡の基礎が作られていった。
 
大正期には中山晋平が西洋音楽の手法で劇中歌とはいえ、流行歌を作ったことは画期的であった。「[[カチューシャの唄]]」「[[ゴンドラの唄]]」などの洋風の旋律は新鮮なイメージをあたえ、インテリ層に受けた。また「[[船頭小唄]]」はヨナ抜き短音階で作られ、昭和演歌の基本になっている。これらの歌は「流行り唄」として、演歌師たちが歌い広めた。ヨーロッパのオペラはすでに明治時代から紹介されており、帝劇歌劇部が誕生している。同歌劇部からは、[[原信子]]、[[清水金太郎]]らがイタリア人音楽家ヴィットリオ・ローシーの下でオペラ活動に従事した。それが、[[浅草オペラ]]として花が咲き、[[田谷力三]]・[[藤原義江]]ら声楽家が育った、東京の浅草を拠点にした浅草オペラが人気を集めた。人々は「[[カルメン (オペラ)|カルメン]]」の「闘牛士の唄」、「[[リゴレット]]」の「女心の唄」などを歌い、演歌師もアメリカの軍歌から「[[パイノパイノパイ|パイノパイ節]]」、インド民謡から「ジンジロゲ」などを創作、陸海軍軍楽隊や「ジンタ」と呼ばれる宣伝用の音楽隊の活動、ピアノ、ハーモニカの普及などの動きで、日本に海外の音楽が根付き流行歌の母体が生まれていく。また1925(大正14)年のラジオ放送も、音楽普及のメディアとして大きな役割を果たした。
 
一方、1890年代に録音媒体として[[レコード]]技術が移入され、音楽の録音とその発売という商業活動が始まることになったが、それをもってしてもまだ商業性に乗じた歌は生まれなかった。この頃のレコード吹き込みの内容が講談・落語・浪曲・邦楽などそもそも音楽以外のものが圧倒的であったこと、大正時代に入ると、「流行り唄」は書生節レコードとして、オリエント、帝国蓄音器(後のテイチクとは異なる)ニットーレコードなどから、演歌師たちのレコードが発売されている。また大衆歌謡のレコード制作の態度そのものも「あくまで流行している歌を吹き込んだだけ」、つまりは演歌師たちの歌を聞きつけてレコードにするというもので、レコード会社が能動的に歌を企画・製作するわけではなかった。大正初期、[[松井須磨子]]による「[[カチューシャの唄]]」や、[[鳥取春陽]]の「籠の鳥」「[[船頭小唄]]」などは映画主題歌として商業的に成功した例外的な存在であった。
 
なお、この時期の大衆歌謡を流行歌と区別して「'''流行り唄'''」「'''はやり唄'''」と呼ぶことが多い。
===二村定一と佐藤千夜子===
 
「流行り唄」から、流行歌への移行の胎動が見られ始めるのは、昭和3(1928)年のことである。外資系レコード産業の成立によって、電気吹込みによるレコード歌謡が誕生し、その中で[[浅草オペラ]]の出身の[[二村定一]]が流行歌への先鞭を付けたのである。二村は芸の一部として歌を用い、大正末期からジャズ・ソングをニッポノホンで吹込み、その他にナンセンスなコミックソングを多く歌っていたが、昭和3年に出したジャズ(現在の[[イージーリスニング]]にあたる軽音楽の総称)に日本語詞をつけた「[[あお空|私の青空 (歌)|あお空]]」「[[アラビの唄]]」のヒットにより、井田一郎のバンドでジャズ歌手としての活動も開始する。
 
一方、声楽家であった[[佐藤千夜子]]は、ビクターで昭和3年発売の「[[波浮の港]]」を吹込み本格的な流行歌手として登場した。藤原義江が米国ビクターで吹込んだ赤盤と併せてかなりのレコード売り上げをしめした。昭和4(1929)年に「[[東京行進曲]]」をヒットさせ歌謡界の女王として「日本最初のレコード歌手」の栄誉を手にすることになる。彼女を昭和流行歌の嚆矢とする説があるゆえんである。
 
それまで歌手といえば書生節の街頭演歌師であり、洋楽系歌手の登場は昭和の新しい流行歌手の誕生でもあった。しかし多くの歌手は母音に響きだけのビブラートを使って声を張り上げて歌うことが多く、当時の録音技術の未熟さも相まって歌唱が不明瞭になってしまっていた。佐藤千夜子はオペラ調、二村は日本語が明瞭であり、二人の歌唱は非常に画期的であった。のち二村は舞台に専念し佐藤はイタリアへ留学してそれぞれ流行歌の世界から身を引いてしまう。しかしその後佐藤千夜子に刺激を受け、声楽家が流行歌やレコード歌謡に進出するなど、残した影響は大きかった。
 
これにより2人のレコードを制作していた[[ビクターエンタテインメント|ビクター]]は、作曲家に[[中山晋平]][[佐々紅華]]。作詞家には[[時雨音羽]]・[[堀内敬三]]を擁し、他社を押さえて大きく躍進することになった。
 
===藤山一郎の登場と第一世代===
:[[東海林太郎]]
 
この他にも大手といえる規模の会社として、[[ビクターエンタテインメント|ビクター]]と[[キングレコード|キング]]があった。しかしビクターはかつて主力としていた作曲家の[[中山晋平]]が流行歌向きでなかったために時流に乗り遅れたこと、昭和8(1933)年ビクターに入社した[[藤山一郎]]は流行歌も歌うが本名の増永丈夫でクラシックを歌う関係上本格的でなく、[[徳山璉]]、[[四家文子]]らもクラシックの声楽家としての活動が主体であり、「[[涙の渡り鳥]]」「[[島の娘]]」「無情の夢」を作曲した[[佐々木俊一]]の台頭、日本調の[[小唄勝太郎]]らがビクターを支えていた。昭和15年以後は[[灰田勝彦]]の人気が全国的となり、戦前のビクターの看板歌手を代表した。
 
キングは既に流行歌手として実績を持っていた[[東海林太郎]]と専属契約をしたものの、ポリドールに借り出した際に「赤城の子守唄」でヒットを飛ばされ、そのままポリドールと二重契約を認めざるを得なくなったばかりか、相手方でばかりヒットを飛ばされるという目に遭い、結局戦前は中堅以上になれないまま終わった。
 
またこれにともない、流行歌の作詞・作曲を専門とする作詞家や作曲家が多数出現した。作曲家では[[古賀政男]]・[[江口夜詩]]・[[古関裕而]]・[[服部良一]]らを筆頭に、[[竹岡信幸]][[阿部武雄]]などが、作詞家では[[西條八十]]・[[佐藤惣之助]]を筆頭に、[[サトウ・ハチロー]]、[[藤田まさと]]らが活躍するようになった。
 
このような状況の中で、流行歌は庶民の生活に寄り添う形でその制作数を増し続けた。まず、当時の第一の娯楽であった映画とリンクしたことが、普及に大いに役立つことになった。「沓掛小唄」・「[[旅の夜風]]」などの主題歌、さらに映画俳優による歌の吹き込みや人気歌手の映画出演、「百万人の合唱」「裏まち交響樂」「鴛鴦歌合戦」などの音楽映画制作が好例である。
 
また「[[赤城の子守唄]]」・「妻恋道中」・「裏町人生」などの正統派の演歌も多く作られ現在も歌い継がれている曲が多い。
 
さらに「[[坂田山心中事件|天国に結ぶ恋]]」・「[[爆弾三勇士|肉弾三勇士]]」などの時事問題、「ハイキングの唄」・「[[波浮の港]]」・「スキーの唄」などピクニックブームや大島ブーム、スキーブームといった流行を取り入れた作品も発表された。
 
「祇園小唄」・「[[ちゃっきり節|茶切節]]」・「[[東京音頭]]」といった「[[新民謡]]」という形で地方の風物を歌ったり、時には小唄勝太郎・[[市丸]]・[[美ち奴]]・[[新橋喜代三]]など芸者を歌手として起用して(芸者歌手)、「島の娘」「明治一代女」を代表作とする邦楽の要素を強く持った曲を打ち出した。また、ディックミネ・淡谷のり子らによる「[[ダイナ (曲)|ダイナ]]」・「酒が飲みたい」・「[[別れのブルース]]」など欧米のポピュラー音楽をベースにした作品は、戦後、[[笠置シヅ子]]、[[江利チエミ]]、[[雪村いづみ]]らに受け継がれポップス歌謡の源流を生み出した。
 
時代が満州事変から日中戦争へと軍国主義化に進むと、それに呼応して、当時「新天地」とされた[[満州]]や中国大陸への憧れを「上海の花売娘」・「満州娘」など「大陸歌謡」という一ジャンルに仕立て上げたりと、さまざまな側面からその世界を拡大し、各々の個性を競い合ったのである。
===戦時中の暗黒時代===
 
しかし戦争の影は否応なく流行歌の世界にも影を落とし始めた。軍歌は兵士を鼓舞させるために軍隊が作ったものや兵士の間で歌われたものをさす。軍国歌謡は新聞社やレコード会社が企画し、国民の戦意高揚を図ったものである。戦時歌謡は、戦争の時期の流行歌と軍国歌謡を合わせた意味をもつジャンルの名称である。。昭和12(1937)年の「[[露営の歌]]」の成功に伴い、このような戦争賛美・国威発揚を目的とした歌が徐々に増え、流行歌の音楽世界を蚕食し始めたのである。「忘れちゃいやよ」・「裏町人生」などのヒット曲が[[発禁|発売禁止]]になり統制が厳しくなった。昭和15年の「[[紀元二千六百年記念行事|皇紀二千六百年記念]]」による国を挙げた記念事業も、それに拍車をかけ、人気歌手は戦地に慰問に行くことが多くなった。
 
戦時歌謡の優勢が決定的となったのが、昭和16(1941)年の[[太平洋戦争]]勃発である。これにより国内は戦争一色の状態となり、流行歌も戦時歌謡だらけとなって、それまで何の問題もなかった抒情歌が「女々しい」と発禁処分になる状況となった<ref>[[高峰三枝子]]の「湖畔の宿」が有名。ただし実際には前線の兵士の間でも支持を得てヒット曲となった。</ref>。昭和18(1943)年頃になると、戦況の厳しさに比例するかのように戦時歌謡も凄惨な内容のものに変わって行き、完全に音楽性が崩壊することになる。そんな状態であったが、「新雪」・「高原の月」・「勘太郎月夜唄」などがわずかながらも作られ、戦時歌謡よりも支持を得た。
昭和20(1945)年8月14日、日本は[[ポツダム宣言]]受諾を決定した。これにより戦争という桎梏のなくなったレコード業界は、さっそく復活の狼煙を上げ、各地に従軍や疎開していた歌手や作曲家・作詞家を呼び戻し始めた。そして翌年から早くも活動を再開したのである。
 
この時、レコード会社は新人歌手の開拓に腐心した。この活動によりデビューしたのが、[[美空ひばり]]や[[並木路子]]など、「第三世代」とでも呼ぶべき歌手である。特に並木と[[霧島昇]]がデュエットした「[[リンゴの唄]]」は戦後の自由な雰囲気を謳歌する曲として有名である。
 
だがこのことが、戦前からの歌手にとっては明暗を分けることになった。特にあおりを大きく受けたのが初期の歌手である。昭和一桁の時代から歌い続けている彼らは、古いイメージから脱却しようとするレコード会社の意向にそぐわない存在であった。このため自然と冷や飯食いの待遇となり、多くの歌手が引退を余儀なくされた。移籍して活動を続ける者もあったが、戦前のようなヒットが飛ばせず苦しむことが多かった。戦後も変わらずヒットを飛ばすことが出来たのは[[藤山一郎]]などごくわずかな歌手のみである。
:[[岡晴夫]]、[[小畑実 (歌手)|小畑実]]、[[津村謙]]、[[松島詩子]]
 
この新旧相交ざった状態が昭和20年代中頃まで続き、その中で藤山一郎と[[奈良光枝]]のデュエットによる「[[青い山脈 (歌)|青い山脈]]」など、戦後流行歌が数多く生まれた。
 
===藤山一郎のレコード歌手引退===
戦前派の撤退を横目に、新人歌手の開拓は続いていた。ビクターは[[鶴田浩二]]、[[三浦洸一]]、テイチクは[[三波春夫]]、コロムビアは[[島倉千代子]]、[[村田英雄]]がそれぞれデビュー。特に[[キングレコード|キング]]は昭和20年代末から30年代にかけて、[[春日八郎]]や[[三橋美智也]]をデビューさせ、戦前とは比べ物にならない勢いを誇った。また[[石原裕次郎]]や[[ザ・ピーナッツ]]など、新しいタイプの歌手も次々登場した。特にザ・ピーナッツは日本では事実上「演歌か洋楽か」の二者択一しかなかった日本の歌謡界に和製ポップスを持ち込んで話題となり、以後の日本歌謡における多ジャンル化への契機ともなった。
 
このように戦後派が天下を取る状況となったことにより、流行歌の音楽性は大きく変容した。器楽的な部分はなりを潜め、のちの「[[演歌]]」や「[[歌謡曲]]」に通じるような曲が多く生まれた。このため、この時期の「第四世代」ともいうべき歌手を「流行歌歌手」として認めない意見も多い。
 
===演歌の分離と終焉===
===概要===
 
「士気高揚」ということで極めて勇ましいイメージがあるが、その一方で開戦前までは上原敏の「上海だより」「声なき凱旋」・近衛八郎の「[[ああ我が戦友]]」・音丸の「皇国の母」など兵士の望郷の念や戦友への思い、留守家族の気持ちを歌った叙情的な曲も多かった。また[[塩まさる]]の「九段の母」のように、一見すると戦時体制を讃美する内容であるが実は違う、というギミックが入っている歌もあった<ref>地方から老母が戦死した息子を弔いに招魂社(靖国神社)に来る姿を描いた歌で、招魂社讃美の歌。しかしこの老母が都会や戦時体制にすれていない姿に描かれており、当時の戦時体制がそれまでの常識に外れた異常なものであることを風刺した歌とも読める。</ref>。
 
しかし昭和16(1941)年の太平洋戦争開戦後、このような叙情的な戦時歌謡は「女々しい」と歌唱が禁止された<ref>この禁止は戦時歌謡だけでなく、明治時代に作られた軍歌にまで及ぶというかなりヒステリックなものであった。</ref>。さらに当時流行歌の大半が戦時歌謡と化していたため、流行歌の世界に「前線の戦い」と「銃後の守り」、そしてプロパガンダを叫ぶ歌ばかりがあふれることになる。末期になると残酷な歌詞も平気で使われるようになり、結果的に音楽としての価値を損なう結果となった。
 
戦時歌謡は戦争の産物であるため戦中の作がほとんどであるが、戦後も[[シベリア抑留]]に遭い境遇と生還の思いを現地で歌った「[[異国の丘]]」やシベリア抑留からの復員の喜びを描いた「ハバロフスク小唄」<ref>ただしこの曲は収容所で覚えた歌を書き起こしたものであったため、発売後に、昭和15年林伊佐緒による『東京パレード』の替え歌だったとわかり発売中止になった。</ref>、異国の戦犯裁判の悲劇を歌った「[[ああモンテンルパのは更けて]]」、引き上げ船を歌った「かえり船」など少数ながら作例がある。また、ジャワの民謡「ブンガワンソロ」が戦後藤山一郎、松田トシによって歌われるなど、日本軍占領地の唄が逆輸入されたことも見逃せない。
 
これらの戦時歌謡はほとんどの場合、他の流行歌と共通の作詞家・作曲家によって作られている。ただし誰でもよいわけではなく、勇ましい作風を持つ作曲家が選ばれ、[[古関裕而]]や[[江口夜詩]]がその代表格となった。一方、[[服部良一]]のようにモダンな作風の作曲家は不遇な目に遭わされることになった。
しかし戦後、これらの作詞家・作曲家の中には戦争賛美に加担したことを悔い、罪悪感にさいなまれた者も少なくない。たとえば、古関裕而は大戦末期に作曲した『比島決戦の唄』について、'''「……私にとっていやな歌で、終戦後戦犯だなどとさわがれた。いまさら歌詞も楽譜もさがす気になれないし、幻の戦時歌謡としてソッとしてある。」'''と証言している(古関裕而『鐘よ鳴り響けー古関裕而自伝』主婦の友社 1980年)。
 
戦時歌謡はメディアによる制作も行われた。1936年6月1日「[[国民歌謡]]」がNHKで開始された。人気曲はレコード化されて大ヒットした。それには、「朝」・「[[椰子の実]]」・「春の唄」など今日も愛唱されている作品があるが、「[[愛国の花]]」・「隣組の唄」・「[[めんこい仔馬]]」・「[[国民進軍歌]]」など明らかにプロパガンダ的要素の強い作品も多い。
 
===「大陸歌謡」との関係===
戦時歌謡は一般的に「[[軍歌]]」とも呼ばれることが多い。しかし「軍歌」の定義は本来は「軍隊の中で作られて歌われた歌」のことなので、商業的に外部で作られた戦時歌謡は本来的にはあてはまらず、単に戦争関係だからと十把一からげにして呼ばれているだけに過ぎない。
 
この「軍歌」呼ばわりにより、流行歌の知識が不足している人よりあらぬ誤解を受けることも多いことから不快感を示すファンも多く、歌手でも[[東海林太郎]]は自分の「[[麦と兵隊]]」が「軍歌」呼ばわりされるのを嫌い「あれは戦時歌謡で軍歌ではない」とわざわざコメントしたほどである。
 
==音源復刻==