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'''三刀屋 久扶'''(みとや ひさすけ、生年不詳-[[天正]]19年([[1591年]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[尼子氏]]家臣。尼子家中での地位は惣侍衆。禄は三刀屋本領6785石。[[三刀屋頼扶]]の子。[[尼子十旗]]のひとつ、[[三刀屋城]]城主。別名は新四郎久祐。子には[[三刀屋孝扶]]。
三刀屋弾正釜の所有者として有名。
 
== 経歴 ==
[[三刀屋氏]]の本姓は[[諏訪部氏]]と伝わっており、清和源氏満快流信濃源氏の一族とされている。初代[[諏訪部幸扶]]の子孫が[[出雲国]]飯石郡三刀屋郷にて地頭を務め、そこから「三刀屋」を名乗ったのが三刀屋氏の始まりとされている。三刀屋氏は出雲に入ると、[[塩冶氏]]、[[山名氏]]、[[京極氏]]と従い、[[応仁の乱]]では出雲国守護・[[京極持清]]に従っている。
 
[[享禄]]元年([[1528年]])、父である頼扶より家督を継承。
三刀屋氏は出雲に入ると、[[塩冶氏]]、[[山名氏]]、[[京極氏]]と従い、[[応仁の乱]]では出雲国守護・[[京極持清]]に従っている。
 
[[享禄]]元年([[1528年]])、父である頼扶より家督を継承。
 
[[天文 (元号)|天文]]9年([[1540年]])、主君[[尼子晴久]]に従って毛利元就の拠る[[吉田郡山城の戦い]]に参加。篭城する毛利軍に対し尼子軍は長期戦を展開、久扶は土取場の合戦に活躍する。翌年に[[陶晴賢]]率いる[[大内氏]]の援兵に敗れた晴久は出雲へと撤退する。
 
この大敗北に三刀屋氏は[[宍道氏]]・[[三沢氏]]等と共に大内氏側に寝返る。天文12年([[1543年]])、[[大内義隆]]は[[月山富田城]]を攻めるも落とすことは出来ず、これにより多くの出雲国人衆も再び尼子氏へと帰参。これに久扶も帰参している。この後に晴久は反撃に転じ、大内義隆は敗走、養子[[大内晴持]]が事故死するなどの人的損害を被り山口へと敗走した。
 
その後、晴久は出雲国内の家臣統制に力注ぎ、家臣達に遍諱を与えている。[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])、久扶は遍諱を受けており、これが「久」の字に繋がっている。
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永禄12年([[1569年]])、[[山中幸盛]]率いる[[新宮党]]遺児、[[尼子勝久]]が忠山城にて尼子再興軍が挙兵、これに毛利氏に対して不満を持っていた尼子旧臣は続々と参加。久扶はこの勝久の挙兵に参加しようとしたものの、他家臣団からかつての行動から拒絶され、毛利側に参加している。しかし、この後に[[布部山の戦い]]にて再興軍は敗走、これに勝久は逃亡する。天正2年([[1574年]])に尼子再興軍は因幡にて活動を開始。久扶は毛利氏武将[[吉川元春]]と共に[[私部城]]で交戦している。久扶は同時期に[[毛利輝元]]への起誓文を提出し忠誠を誓っていはいるものの、軍役を拒否することもあり、かなり独立した権限を持っていたようである。再興軍は因幡から[[織田信長]]家臣[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の配下となる。天正6年([[1578年]])、[[上月城の戦い]]が起き、久扶は参加している。再興軍は秀吉の転進により孤立し、上月城は開城。尼子勝久は切腹し、尼子再興の夢は途絶えた。
 
天正14年([[1586年]])、毛利氏に従って[[小倉城の戦い]]に参加。[[肥後国]]にて国一揆を鎮圧するため、子である孝扶と共に出陣している。天正16年([[1588年]])、毛利輝元・[[吉川広家]]・小早川隆景が上洛した際、久扶も同行し[[徳川家康]]と面会していると言われている。日和見で常に有利な側に付く久扶であったが、この家康との面会を主君輝元から嫌疑をかけられ、ついに本領を没収、追放されている。その後、京に上りの四日市村にて死去した
 
== 関連項目 ==
その後、京に上りの四日市村にて死去した。
* [[三刀屋氏]]
 
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