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[[画像:Taira no masakado kubiduka01.jpg|thumb|平将門の首塚]]
[[画像:Nakayama Jinja 02.JPG|thumb|神社の霊木]]
日本の神は本来、祟るものであり、タタリの語は神の顕現を表す「立ち有り」が転訛したものといわれる。流行り病い、飢饉、天災、その他の災厄そのものが神の顕現であり、それを畏れ鎮めて封印し、祀り上げたものが神社祭祀の始まりとの説がある。{{要出典|date=2010年3月}}
 
現在では一般的に{{要出典|date=2010年3月}}、人間が神の意に反したとき、罪を犯したとき、祭祀を怠ったときなどに神の力が人に及ぶと考えられている。何か災厄が起きたときに、[[卜占]]や[[託宣]]などによってどの神がどのような理由で祟ったのかを占って初めて{{要出典|date=2010年3月}}人々に認識され、罪を償いその神を祀ることで祟りが鎮められると考えられている。[[神仏習合]]の後は、本来は人を救済するものであるはずの仏も、神と同様に祟りをもたらすと考えられるようになった。これも、仏を祀ることで祟りが鎮められると考えられた。しかしこれはあくまでも俗信であり、'''仏教本来{{要出典|date=2010年3月}}の考え方においては、祟りや[[仏罰]]を与えることはない'''。
 
==怨霊による祟り==
後に[[御霊信仰]]の成立により人の[[死霊]]や[[生霊]]も祟りを及ぼすとされるようになった。人の霊による祟りは、その人の恨みの感情によるもの、すなわち[[怨霊]]である。有名なものとしては非業の死を遂げた[[菅原道真]]([[天神]])の祟りがあり、[[清涼殿]]への落雷や[[醍醐天皇|醍醐帝]]の死去などが祟りによるものと強く信じられるに至った。時の公卿は恐懼して道真の神霊を[[北野天満宮|北野天神]]として篤く祀り上げることで、祟り神を学問の守護神として昇華させた。このように、祟り神を祭祀によって守護神へと変質させるやり方は、恐らく仏教の伝来以降のものと考えられ、それ以前の最も原始的な日本人の宗教観は「触らぬ神に祟りなし」の[[ことわざ]]どおり、御室の深奥でひっそりと鎮座する神霊を、機嫌を損ねて廟域から出ないように、ただ畏れて封印するものだったのかもしれない。{{要出典|date=2010年3月}}
 
一方、怨霊として道真と並んで有名な[[平将門]]の将門塚周辺では天変地異が頻繁に起こったといい、これは将門の祟りと恐れられた。[[時宗]]の遊行僧・真教によって神と祭られて、[[延慶 (日本)|延慶]]2年([[1309年]])には[[神田明神]]に[[合祀]]されることとなった。また、[[東京都]][[千代田区]]大手町にある[[将門の首塚]]は移転などの計画があると事故が起こるという話もある。