「オットー・レーハーゲル」の版間の差分
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選手キャリアの晩年に差し掛かった頃から指導者を目指して[[ドイツ体育大学ケルン]]サッカー指導者養成コースで学び1970年にライセンスを取得。1974-75シーズンに[[キッカーズ・オッフェンバッハ]]の監督に就任したのを皮切りに監督として数クラブの指揮を執ったが、[[ボルシア・ドルトムント]]時代の1977-78シーズンの[[ボルシア・メンヒェングラートバッハ]]戦では0-12と大敗([[:de:Fußballspiel Borussia Mönchengladbach – Borussia Dortmund am 29. April 1978]])を喫するなど多くの結果を残す事は出来ずにいた<ref name="レーハーゲル" />。
1981年に[[ヴェルダー・ブレーメン]]の監督に就任。有能な若手選手やベテラン選手を集めて常に優勝を争えるチームへと育て上げた<ref name="レーハーゲル" />。1995年に監督を退任するまでの14シーズンの長きに渡って指揮を執り、ブンデスリーガ優勝2回(1987-88シーズン、1994-95シーズン)、[[UEFAカップウィナーズカップ]]優勝1回(1991-92シーズン)を成し遂げるなど監督としての評価を高めていった<ref name="レーハーゲル" />。
ブレーメンで成功を収めたレーハーゲルは1995年に[[バイエルン・ミュンヘン]]の監督に就任したが、レーハーゲルの志向する「個人がチームの為に戦う」スタイルは、[[ローター・マテウス]]や[[ユルゲン・クリンスマン]]らのスター選手を数多く擁するバイエルンでは発揮できず、[[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]決勝直前にクラブ首脳陣との対立もあって監督を退任した<ref name="レーハーゲル" />。
1996年、[[1.FCカイザースラウテルン]]の監督に就任。当時2部リーグに降格していたチームを1部に復帰させると1997-98シーズンにはブンデスリーガ2部から昇格したばかりのクラブを優勝させるという離れ業もなし遂げるなど、2000年まで指揮を執った。レーハーゲルは選手と監督を通じて唯一ブンデスリーガにおいて1,000試合以上に携わっており、通算387勝205分228敗はいずれも最多記録である。
[[File:Rehakles 2008.jpg|thumb|right|220px|選手に指示を与えるレーハーゲル]]
[[2001年]]より[[サッカーギリシャ代表|ギリシャ代表]]監督に就任。[[UEFA欧州選手権2004予選]]では初戦の[[サッカースペイン代表|スペイン]]戦と第2戦の[[サッカーウクライナ代表|ウクライナ]]戦で連敗する苦しいスタートとなったが、ここから6連勝して予選を突破し[[UEFA欧州選手権1980|1980年大会]]以来となる本大会出場を果たした。
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* [http://fussballdaten.de/spieler/rehhagelotto/ Career stats for Otto Rehhagel at fussballdaten.de] {{de icon}}
{{UEFA欧州選手権優勝監督}}▼
{{UEFAカップウィナーズカップ優勝監督}}▼
{{Navboxes|title = ギリシャ代表監督
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{{2010 FIFAワールドカップギリシャ代表}}
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{{Navboxes|title=獲得タイトル・記録
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▲{{UEFAカップウィナーズカップ優勝監督}}
▲{{UEFA欧州選手権優勝監督}}
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{{先代次代|[[バイエルン・ミュンヘン]]監督|1995-1996|[[ジョバンニ・トラパットーニ]]|[[フランツ・ベッケンバウアー]]}}
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