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5000石を領した大身[[旗本]]・[[松平信定 (大河内松平家)|松平信定]]の十男。輝規の従兄弟である高崎藩主・[[松平輝貞]]の養子となる。従四位下、右京大夫を称する。子に[[松平輝高]](長男)、娘([[三浦明次]]正室)らがいる。
 
[[元文]]4年([[1739年]])、『見聞相染集(けんもんそうぜんしゅう)』という教訓書を著わした。この書名は実父である松平信定が詠んだ歌「見つ聞きつ いにしへ今の かずかずに 思を染むる 言の葉の道」に由来する。別名を『愼怖記(しんふき)』ともいう。
 
==略歴==
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{{高崎藩主|大河内松平氏|2代|1745-1749}}
 
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[[Category:譜代大名松平氏|まつたいらてるのり]]
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[[Category:1756年没]]