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[[教皇派と皇帝派]]の間で起きた中世の争いでは、フォルリは自主性を保持する意味で皇帝派にたった。イタリアでは[[神聖ローマ帝国]]を都市が支援することは全て危険であった。最もどう猛なライバルは[[ファエンツァ]]、[[ボローニャ]]であった。これらの数世紀、教皇は、時には暴力で、時には餌をちらつかせ、何度もフォルリの支配権を握ろうとした。
 
さらに本質的な地元フォルリでの競争は、愛国者の間に巻き起こった。[[1241年]]、[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]と教皇[[グレゴリウス9世]]が争っている間、フォルリ市民は支援をフリードリヒ2世に対し提供した。皇帝はフォルリのライバルであるファエンツァを占領している最中であり、皇帝は謝意としてフォルリに[[ホーエンシュタウフェン家]]のワシのついたコムーネの紋章を増加、そしてその他に特権を与えた。ホーエンシュタウフェン家の権力が[[1257年]]に崩壊すると、忠実な皇帝の司令官[[グイド1世・ダ・モンテフェルトロ]]が、イタリアに唯一残っていた皇帝派の砦であるフォルリに待避しようとした。彼は民衆隊長(''capitano del popolo'')の地位を与えられ、フォルリのためにいくつか名の知られる勝利を獲得した。[[1275年]][[6月15日]]ポンテ・ディ・サン・プロコロでの対ボローニャ戦、[[1276年]][[11月14日]][[チヴィテッラ・ディ・ロマーニャ|チヴィテッラ]]における、[[フィレンツェ]]軍を含む対教皇同盟軍との戦いなどである。フォルリ自身は、[[マルティヌス4世]]が送り込んだ強力なフランス遠征軍と[[1282年]][[5月15日]]に戦った。ダンテ・アリギエーリがこの戦いを引用している(彼は[[1303年]]にスカルペッタ・オルデラッフィ3世にフォルリでもてなしをうけた)。1282年、フォルリ軍はグイド・ダ・モンテフェルトロに率いられていた。有名な占星術師[[グイド・ボナッティ]](フリードリヒ2世の助言者の一人)は、モンテフェルトロの助言者でもあった。
 
同じ年、疲れ切ったフォルリ議会は教皇勢に服従するのを強いられて、グイドにここを立ち去るよう頼んだ。コムーネは、教皇庁の代理人による直接支配を飲むよりも、すぐに地元の[[コンドッティエーレ]]に対し服従した。そこで、[[シモーネ・メスタグエッラ]]([[:en:Simone Mestaguerra]])は自身がフォルリの君主であることを宣言した。彼は後継者としての新たな君主の権威を残さなかったが、フォルリはマギナルド・パガーニ([[:en:Maghinardo Pagani]])、そしてウグッチオーネ・ファッジュオラ([[:en:Uguccione della Faggiuola]]、[[1297年]])らコンドッティエーレが君主となって治め、[[1302年]]まではオルデラッフィ家([[:en:House of Ordelaffi]])が権力を握った。
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