「本質」の版間の差分

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なお、概念が本質存在する([[概念]]として存在する)ということは、単に文法的・形式的な理由で名目的に表現可能であるというだけではなく、論理的[[矛盾]]なく想定可能だということを指す。言語の不備から、曖昧な、あるいは矛盾を孕む概念が観念されることはありうる。しかし、そうした名目的概念は、その名辞に対応する実体を持たないと考えられた。しかし、このことはかならずしもその概念に対応するものが現実存在するということを保障しない。概念から最高存在の現存在を証明する実体論的証明を退けた者には[[イマヌエル・カント|カント]]がいる([[純粋理性批判]])。
 
このことは可能や不可能など[[様相]]を問題にする場面でとくに問題となり、また現代では[[マルティン・ハイデッガー|ハイデッガー]]や[[実存主義]]によって、[[存在]]するということがものの[[本質]]や[[属性]]に含まれないという点から着目された。たしかに[[ルネ・デカルト|デカルト]]などにとっては、たとえば神はその完全性のうちに存在を含むものであった。しかし、存在するものとしてしかその本質が考えられない([[バールーフ・デ・スピノザ|スピノザ]])、というだけでは、やはりそのものは現実存在するとは限らないとの批判がたとえば[[イマヌエル・カント|カント]]などからなされている。すなわち、[[述語]]として考えたときに「存在する」という述語は、他の述語にはないやや特異な位置を占める。
 
{{see also|神の存在論証}}