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{{Otheruses|一般的概念としてのプシュケー|ギリシャ神話に登場する存在|プシューケー}}
#redirect[[プシューケー]]
 
'''プシュケー'''({{lang-el-short|Ψυχή}}、<small>アルファベット表記:</small>Psyche)とは、古代ギリシャの言葉で、もともとは[[息]](いき、呼吸)を意味しており、転じて生きること(いのち、[[生命]])、また[[心]]や[[魂]]を意味するようになった言葉である。
 
{{lang-el-short|Ψυχή}}はもともと息(呼吸)を意味していた。呼吸は生命のしるしとして最も顕著なものであったので、やがてこのプシュケーという言葉は、生命を意味するようになり、それが転じて、やがて[[心]]や[[魂]]も意味するようになった<ref>『ブリタニカ国際大百科事典』第11巻、【生物学】p.220</ref>。そのような語義になったのも当然<ref>『ブリタニカ国際大百科事典』第11巻、【生物学】p.220</ref>と指摘されている。(注※<ref>※ なお、息という意味から《生きること》や《いのち》までも派生するようになったのは何も古代ギリシャ語に限らない。日本語でも、「いき(息)という言葉が[[活用]](語形変化)して「いき-る(生きる)」という言葉が成立したのである(出典:『日本語語源大辞典』2005、『大言海』1932年)。また「いのち」という言葉の語源に関する説は(説がひとつに定まっているわけではなく確定的な説は無いものの)「い(息)のうち」という意味・表現から生じたという説(出典:大言海、日本語源辞典)、あるいは「息のち(力)」から生じた、とする説(出典:[http://gogen-allguide.com/i/inochi.html 語源由来辞典])が主たるもので、いずれにせよ日本語でも一般的に「いのち」は「息」から派生した言葉だと判断されているのである。</ref>)
 
「プシュケー」という言葉を現代日本語に訳す場合、ひとつの訳語で押し通すことは困難なことが多々ある。同一の文献でも、ある文脈では「いのち」と、ある文脈では「心」あるいは「魂」と訳したほうが適切で、ある文脈ではどちらとも解釈可能、ということもある。古代ギリシャ語と現代語では概念の体系自体が異なっているのである<ref>[[通約不可能性]]も参照のこと</ref>。
 
== 古代ギリシャ哲学 ==
[[ソクラテス]]は(あるいはプラトンが自著で描くソクラテスは)、プシュケーを[[知]]と[[徳]]の座だとした。<nowiki>< よく生きる ></nowiki>ことを《プシュケーの気遣い》として説いた
<ref name='Iwatetsu'>
{{Cite book|和書
|author = 山我哲雄
|year = 1998
|title = 哲学 ・ 思想 事典
#redirect[[|chaptar = 【プシュケー]]
|publisher = 岩波書店
|id = 4-00-080089-2
}}
</ref>
。プシュケーの世話をせよ、と説いたのである。
 
ソクラテスの弟子の[[プラトン]]は、滅びる宿命の身体に属する感覚を超えた知を描き、知を特質とし自己を動かすプシュケーは不滅である、とした<ref name='Iwatetsu' />。
 
[[アリストテレス]]は『[[ペリ・プシューケース]]』({{lang-el-short|Περὶ Ψυχῆς}})において、さまざまな生命の生存の原理を論じ、プシュケーとは「可能態において命をもつ自然的物体の[[形相]]」と述べ、プシュケーというのは命の本質である自己[[目的]]機能であり、そして[[四原因説|起動因]]である、とした。また同書でプシュケーは[[栄養]]摂取、[[知覚]]、[[理性]]などの順で階層をなしていると捉え、各階層ごとに説明を試みた<ref name='Iwatetsu' />。より細かく挙げれば、栄養摂取、生殖の能力、感覚能力、欲求能力、場所的移動の能力、表象能力、理性能力などである。
 
アリストテレスは、一時期は生物の種類によって異なるプシュケーの段階があると見なし、(1)植物的プシュケー (2)動物的プシュケー (3)理性的プシュケー の3つを区別した。だが、彼の知識が増えるにしたがい、植物・動物・人間にプシュケーの違いが絶対的にあるとは考えないようにようになり、動物もその程度に応じて人間と同じような理性を持っていると考え、さらにその後になると、植物・動物・人間でプシュケーに区別は基本的に無い、と見なすようになったようである<ref>『ブリタニカ国際大百科事典』第11巻、【生物学】p.221</ref>
 
[[プロティノス]]は、[[神秘主義]]的な方向に進み、一者から[[ヌース]](知性)が、ヌースからプシュケーが、そしてプシュケーから[[ヒューレー]]([[質料]])が流れ出ると述べた。
 
== 新約聖書 ==
[[新約聖書]]における「プシュケー」は、例えば『[[マルコによる福音書]]』3:4、8:35、10:45のそれは、日本語では「命」と訳しうる。また、[[マルコによる福音書|マルコ]] 14:34、[[ルカによる福音書|ルカ]]などでは感情の座である<ref name='Iwatetsu' />。新約聖書の「プシュケー」という表現は、現代語で言う「精神」と「身体」を合わせた人間を表しているのであって、霊肉二元論ではないので、「人」とか「人々」と訳したほうが自然なくだりも多い<ref name='Iwatetsu' />。
 
新約聖書ではプシュケーはプネウマと対比され、プネウマのほうは神から与えられる超自然的賜物とされている<ref name='Iwatetsu' />。
例えば、[[パウロ書簡]]でもそうで、(ロシア語聖書ではプシュケーはドゥシャ、プネウマはドゥーフ、という語に訳し分けられている)、プネウマ(ドゥーフ)はパウロ書簡では、心・魂ではなく、それらを超えたことろから外的に働く力、としてしるされている<ref>文學界 第 7~8 号 p.150</ref>。[[救済]]は[[古代ギリシャ]]や[[グノーシス主義]]では「神的プシュケーの罪ある肉体(ソーマ)の牢獄(セーマ)からの解放」であったが、新約聖書ではあくまで体の[[復活]]としてとらえられている<ref name='Iwatetsu' />。
 
== ルター ==
ルターは、ギリシャ語のプシュケーをつねに「いのち」と訳していたという<ref>菱刈晃夫『近代教育思想の源流:[[スピリチュアリティ]]と教育』p.123</ref>。
 
== 参考文献 ==
*『哲学 ・ 思想 事典』1998年 【プシューケー】
*『日本語語源大辞典』2005
*『ブリタニカ国際大百科事典』第11巻
 
== 出典・脚注 ==
<references/>
 
== 関連文献 ==
* 西岡孝治「プシュケーと[[ソーマ]] --[[プラトン]]の[[対話篇]]に於ける」『思索』 (5), 東北大学哲学研究会、155-172, 1972-10
* [[清水哲郎]]『[[パウロ]]の言語哲学』2001
*荻野博和「[[オリゲネス]]における聖書解釈の原理としてのプシュケー」トマス大学大学院論叢, 聖トマス大学大学院論叢 (11), 1-55, 2009-12, 聖トマス大学大学院人文科学研究科
* 北村普「[[サルトル]]とプシュケーの問題」『哲学世界』早大文研哲学専攻刊 1988年
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[[Category:哲学の概念]]
 
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