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'''内藤 信智'''(ないとう のぶとも、[[元文]]3年([[1738年]]) - [[明和]]4年[[5月26日 (旧暦)|5月26日]]([[1767年]][[6月22日]]))は、[[江戸時代]]中期の[[旗本]]・[[内藤信庸]]の養嗣子。別名・幸三郎、頼母。妻は[[谷衛衝]]の娘。子に[[谷衛貞]]妻、[[内藤信義|信義]]。
元文3年(1738年)[[内藤信朋]]の子・[[内藤信邦]]の次男として生まれる。父・信邦は同年8月11日に夭折したため、[[内藤信庸]]が家督を継ぎ、信智はその養子となった。▼
{{武士/氏族|[[内藤家 (信成系)]]}}▼
[[宝暦]]6年([[1756年]])12月7日、[[徳川家重]]に披露される。しかし明和4年(1767年)5月26日、養父・信庸に先立ち死去した。享年30。信庸の遺領は信智の子・[[内藤信義]]が継承している。▼
▲元文3年(1738年)[[内藤信朋]]の子・内藤信邦の次男として生まれる。父・信邦は同年8月11日に夭折したため、[[内藤信庸]]が家督を継ぎ、信智はその養子となった。
▲[[宝暦]]6年([[1756年]])12月7日、[[徳川家重]]に披露される。しかし明和4年(1767年)5月26日、養父・信庸に先立ち死去した。享年30。
「[[寛政重修諸家譜|寛政譜]]」には法名、葬地が記されていない。
== 出典 ==
*『新訂寛政重修諸家譜』13巻 続群書類従完成会、1984年 205および204頁
== 関連項目 ==
{{DEFAULTSORT:ないとう のふとも}}
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