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彼らはさらに、[[1990年]]に3rdアルバム、『[[ブラック・プラネット]] - ''Fear of a Black Planet''』をリリース。このアルバムは、2008年現在、彼らのアルバムの中で最も売れたアルバムであり、[[アメリカ国会図書館]]の重要保存録音物として永久保存されている。収録されているシングル曲には、救急活動が黒人地区においては白人地区よりも遅く到着することを批判した"911 is a Joke"や、PE自身のことを歌ったと考えられている"Fight the Power"がある。この曲はヒップホップ史上最も人気と影響力のある曲の一つであり、[[スパイク・リー]]が監督した映画、『[[ドゥ・ザ・ライト・シング (映画) |ドゥ・ザ・ライト・シング]]』のテーマ曲でもあった。
 
パブリック・エナミーは様々な面において先駆者だったといえる。例えば[[ターミネーターX]]は、"Rebel Without A Pause"で聴くことができるように、[[ディスクジョッキー#スクラッチ|スクラッチ]]をより洗練されたテクニックに昇華させたし、プロデューサーユニットのThe Bomb Squadは斬新なサンプリングやビートを提示した。批評家のスティーブン・トーマスは「(PEは)プロデューサーチームのthe Bomb Squadを通じて[[フリー・ジャズ]]やハード[[ファンク]]、さらには[[ミュジーク・コンクレート]]の要素さえも取り込んで、前例のないようなぎっしりとした凶暴なサウンドを作り上げた」と評した。また、ラップの面においても、PEは政治的・社会的あるいは文化的な意識を、巧みで詩的な[[ライム]]にのせることによってラップの世界を変革した。
 
PEは世界ツアーを敢行した最初のラップグループでもあり、その結果、ヨーロッパやアジアのヒップホップ・コミュニティーの中で大きな人気と影響力を持つようになった。また、アルバムをMP3フォーマットで(この形式がほとんど知られていなかった頃に)リリースした最初のミュージシャンであり、インターネット経由の音楽配信の可能性を切り開いた。
 
[[1991年]]、パブリック・エナミーはニューヨークの[[スラッシュメタル]]バンド、[[アンスラックス]]との競演によって、[[ハードロック]]とヒップホップの融合を成功させた。シングル曲"Bring the Noise"は、戦闘的な「ブラックパワー」的歌詞と破砕的なギター、そして時折顔をのぞかせるユーモアが特徴的だ。お互いのリスペクトやチャックDとアンスラックスのリーダーである[[スコット・イアン]]との間の個人的な友情によって結びつけられたこのコラボレーションによって、ロックファンは当時なじみのなかったヒップホップを知ることになる。また、外見上は全く異なる二つのグループは共同ツアーさえも行った。[[フレイヴァー・フレイヴ]]がステージで言い放った「奴らはこのツアーが実現することはないだろうと言ったんだ」(アンスラックス の''Live: The Island Years''で聞くことができる)はロック界でもヒップホップ界でも伝説的なものになった。この、当時では考えられなかったコラボレーションがなかったら、[[リンキン・パーク]](~Brad DelsonとMike ShinodaがANTHRAXとPUBLIC ENEMYのジョイント・コンサートに衝撃を受けて、バンド結成を決意したほど。)のようなバンドは存在しなかっただろうし、[[ラップロック]]や[[ニューメタル]]のようなジャンルは確立し得なかっただろうとさえ考えられている。
 
 
== 名前の由来 ==