「粟津高明」の版間の差分

入信に2年後の1871年(明治4年)には、バラに疎んじられ、バラの日本語礼拝に出席するだけの信徒になる。その1872年(明治5年)、[[篠崎桂之助]]が入信すると、粟津の同志になる。
 
1870年より、[[海軍兵学寮]]に出仕する。1874年(明治7年)に海軍兵学寮の新寮掛になると幼年生徒を集めて、キリスト教の講話を日曜ごとに行う。教え子の一人に、[[和田秀豊]]がいる。その後、兵学校教官として、渡米する。アメリカの人種差別を見て西洋嫌いになる。[[海軍兵学校]]の教頭になる。
 
1876年4月7日に教会の長老候補者に、[[日本基督公会]]([[横浜海岸教会]])と東京基督公会(新栄教会)が公会主義を無視しているとの非難の文書を送る。1876年年に自宅に自費で、石造りの会堂を建てて、新栄教会に通いながら集会を始める。会堂を建てる時に、宣教師たちが、腰掛や椅子やテーブル、敷物、オルガンなどを贈られると、粟津はそれを丁重に断り、西洋色のない日本独自の教会を目指す。1880年に病死する。遺言で「外国に関係のない教会を樹立せよ」と言った。粟津の2年後、[[アメリカン・ボード]]の教会と合併して、[[日本組合教会]]に所属する。今日の、日本基督教団霊南坂教会になる。