「レシェク1世」の版間の差分

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レシェク1世は東の[[ハールィチ・ヴォルィーニ大公国|ハールィチ・ルーシ]](ルテニア)を巡って[[ハンガリー王国|ハンガリー]]と戦ったが、この地域に影響力を及ぼすことは出来なかった。そこでレシェク1世はハンガリーと共同でこの地域に進出することを決め、[[ハンガリー国王一覧|ハンガリー王]][[アンドラーシュ2世]]の息子[[コロマーン (ハールィチ王)|カールマーン]]に自分の娘[[サロメア (福者)|サロメア]]を嫁がせ、彼をハールィチの君主とした上でハンガリー王の封臣とし、この主従関係を使ってポーランドとハンガリーの両者がこの地域を支配することにした。しかし亡きロマン大公の息子[[ダヌィーロ・ロマーノヴィチ|ダヌィーロ]]が[[1214年]]にハールィチ([[ガリツィア]])における勢力を回復し、同地域を支配しようとしたポーランドと、カトリックの勢力を東方に拡大しようとしたローマ教会の狙いは、失敗に終わった。
 
1227年11月23日、レシェク1世は[[ゴンサヴァ]]で開催された諸公会議に出席した時に[[暗殺]]された。暗殺を命じたのは東[[ポメラニア|ポモジェ]]のグダニスク公[[シフィエントペウク2世]]だったと思われ、シフィエントペウク2世の義弟でミェシュコ3世の孫である[[ヴィエルコポルスカ県|ヴィエルコポルスカ]]公[[ヴワディスワフ・オドニツ]]が裏で糸を引いていたとされる。この事件はレシェク1世がポモジェの公シフィエントペウク2世に自らの権威に服するよう求めたことが原因だったと言われている。
 
有名な逸話に、レシェク1世が教皇に対し、[[パレスチナ]]には[[蜂蜜酒]]も[[ビール]]も無いのでポーランドの騎士達は[[十字軍]]には加われない、と十字軍参加の申し出を断ったというものがある。
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