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'''干 宝'''(干寶、かん ぽう、生没年不詳)は[[東晋]]の[[文人政治家]][[政治家文人]]。[[字]]は令升。新蔡(現在の[[河南省]][[新蔡県]])の出身人。『[[晋書]]』に伝がある
 
== 生涯 ==
祖父の干統は、[[呉 (三国)|呉]]の奮武将軍・都亭侯、父の干瑩は丹楊県丞をつとめていた。
 
幼いときより読書を好んだという。その才能により召されて佐著作郎として朝廷に仕えはじめ、地方官た。[[杜弢]]の反乱平定に功があり、関内侯になった。[[王導]]の推薦により[[元帝 (東晋)|元帝]]に認められて国史編纂の任務を兼任するようになる。そして[[司馬懿|宣帝]]から[[愍帝 (西晋)|愍帝]]までの事績を『晋紀』に著して好評を得た(現在は散逸)。官界のキャリアについては、山陰県令、始安太守を歴任し、中央政界では司徒右長史をへて散騎常侍に至った。
 
当時の東晋は中興が始まったばかりであったため、史官が設置されていなかった。中書監[[王導]]は[[元帝 (東晋)|元帝]]に対して史官の設置を提言し、その人材として干宝を推薦した。干宝は元帝から認められて国史編纂の任務を兼任するようになった。そして[[司馬懿|宣帝]]から[[愍帝 (西晋)|愍帝]]までの53年の事績を20巻にまとめて著し、『晋紀』と題して上奏した。内容が簡明で正すべきところは正し、婉曲にすべきところは婉曲であったため、干宝は良吏と評価されたという。
 
家が貧しかったため、自らすすんで山陰県令となり、さらに始安太守を務めた。王導の招きを受けて[[司徒]]右長史となり、散騎常侍に至った。
 
干宝は[[陰陽術]]に関心があり、[[京房]]や[[夏侯勝]]らの著作を調べたりした。
 
干宝の父が生前に寵愛した侍女がいたが、父の死後、母が嫉妬してその侍女を生きたまま父の墓に閉じ込めてしまったことがあったという。10年ほど後に母が死去すると、干宝が父の墓を開いてみたところ、その侍女はまるで生きているかのような姿で棺に身を横たえており、数日後には息を吹き返した。話を聞くと、死んでいる父が侍女のために食料を持ってきて、生前のときのように寵愛してくれたという。その侍女は後に外で嫁いで子を生した。
 
また、干宝の兄が病気になってそのまま絶命したが、いつまでたっても体が冷たくならず、後に目覚めて、天地の間の鬼の様子を覗いており、自分が死んでいるという自覚はなかったと語った。
 
こうし身内が体験した奇怪な出来事をきっかけに、世間に伝わる不思議な人物や事件の記録を集めて志怪小説集『[[捜神記]]』(全30巻)を撰した。他の著作劉惔『春秋左氏義外伝』や『見せたところ、干宝のことを「鬼の世界の[[易経|周易董狐]]』の注が」と評し、広く事実を集めてあるが、現在ほとんど伝わ虚実が混ざってしまっていないると意見した。そのため、干宝は序を作ってその志を述べた
 
他の著作に『春秋左氏義外伝』があり、また『[[易経|周易]]』や『周官』の注も著し、当時はよく読まれたという。『晋紀』も含めて現在ほとんど伝わっていない。
 
== 参考資料 ==
* [[:zh:s:晉書/卷082|晋書]]([[陳寿]]、王長文、虞溥、[[司馬彪]]、王隱、虞預、[[孫盛]]、鄧粲、謝沉、[[習鑿歯]]、徐広と同伝)
* 高西成人『[http://ci.nii.ac.jp/naid/110003819579 六朝文人伝 : 『晋書』(巻八十二)干宝伝]』
 
また、身内が体験した奇怪な出来事をきっかけに、世間に伝わる不思議な人物や事件の記録を集めて志怪小説集『[[捜神記]]』を撰した。他の著作に『春秋左氏義外伝』や『[[易経|周易]]』の注があるが、現在ほとんど伝わっていない。
 
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