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== 生涯 ==
ジグモンドは[[バートリ家]]のソムリヨ系統に生まれた。トランシルヴァニア公[[バートリ・クリシュトーフ]]の息子で、ポーランド王[[ステファン・バートリ]]の[[]]にあたる。ジグモンドは父の存命中に公に選ばれたが、父が死んだ時はまた10歳未満の少年に過ぎず、公国の統治は摂政に任させられた。
 
1588年にジグモンドは親政を開始し、[[オスマン帝国]]に敵対するキリスト教徒君主の同盟に参加した。こうしたトルコへの敵対政策は明らかに危険だったが、公国では全く憂慮されていなかった。[[トゥルダ]]で開催された議会はジグモンドに戴冠式に際しての宣誓文書を渡すよう要求したが、ジグモンドがこれを貸し出すのを拒むと、彼を退位させると脅かした。最終的にジグモンドは政敵に勝利し、1595年には逮捕した政敵全員を処刑した。