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[[1862年]][[5月27日]]に代理公使として日本に着任した。当時[[駐日英国大使館|英国公使館]]は[[東禅寺事件#第一次東禅寺事件|第一次東禅寺事件]]の影響で横浜に移っていたが、着任後直ちに公使館を江戸に戻した。しかし、[[6月26日]]([[文久]]2年5月29日)公使館警備の[[松本藩]]士[[伊藤軍兵衛]]による襲撃事件([[東禅寺事件#第二次東禅寺事件|第二次東禅寺事件]])が発生し、結局は公使館を横浜に移した。
 
1862年[[9月14日]]([[文久]]2年8月21日)、[[薩摩藩]]士によるイギリス人殺傷事件([[生麦事件]])が発生した。横浜領事ヴァイス(Francis Howard Vyse)<ref>ヴァイスはこの後箱館領事に左遷されたが、そこでもアイヌ人骨盗掘事件([[エイベル・ガウワー]]の項を参照)を起こし、解任された。帰国後外務省からも追放されたが、後にパリで「うらぶれた姿」になっているのを、偶然[[アーネスト・サトウ]]に目撃されている。</ref>や横浜居留のイギリス民間人らは報復行動を訴えたが、ニールはこれを抑えた。その後本国との連携を保ちながら冷静に対処し、[[江戸幕府]]に11万[[スターリング・ポンド|ポンド]]の償金を支払わせることに成功した<ref>第二次東禅寺事件の賠償として1万ポンド、生麦事件の賠償として10万ポンド、合計11万ポンドである。</ref>。
 
翌[[1863年]]の[[薩英戦争]]では自ら軍艦に乗船して砲撃に参加した。[[1864年]]にオールコックが公使に帰任すると、イギリスへ帰国した。
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===その後===
[[1864年]]に発生した[[下関戦争]]に関して、半ば解任される形でオールコックは本国に召喚された。ニールは再び代理公使の候補となったが、健康が優れず実現しなかった。その後、アテネ公使館書記官、[[エクアドル]]の[[グアヤキル]]の領事を務めたが、在任中の[[1866年]][[12月11日]]に同国の首都である[[キト]]で没した。
 
==生麦事件の解決交渉==
 
生麦事件発生直後、横浜居留の外国人たちは、横浜に停泊中の英・仏・蘭の軍艦から陸戦隊を出し、[[保土ヶ谷]]に宿泊している[[島津久光]]一行を襲撃する計画を立てたが、ニールはこれを認めなかった。フランス公使[[ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクール|ド・ベルクール]]も、事件当日横浜に到着したばかりの[[オーガスタス・レオポルド・キューパー|キューパー]]提督もニールに同意したため、襲撃計画は中止された。
 
[[12月4日]](文久2年10月13日)、ニールは[[江戸城]]に登城し、第二次東禅寺事件の賠償交渉を開始した(生麦事件に関する本国からの訓令はまだ届いていなかった)。第二次東禅寺事件に関しては、本国の[[初代ラッセル伯ジョン・ラッセル|ラッセル]]外相からの支持に基づき、1万ポンド(4万ドル、3万1100両)の賠償金を要求した。幕府はこれに対する即答は避けた。ニールはその後10日間江戸に滞在したが、幕府からの返答を得られなかったため、横浜に戻った。その1週間後に、幕府は3000ドルなら支払うと回答したが、両者の差は大きく合意にはいたらなかった。
 
[[1863年]][[1月28日]](文久2年12月9日)、[[外国奉行]][[竹本正雅]]がニールを訪れ、[[御殿山]]に建設中の新公使館の使用中止(この3日後に[[英国公使館焼き討ち事件|焼き討ち]]にあった)を依頼するとともに、将軍が天皇の説得に失敗した場合には内乱となる可能性があること、その場合には英国は幕府を援助してくれるかを尋ねた。ニールは幕府への精神的支援として可能な限りの艦隊を横浜に集結させると回答し、実際にキューパーにこれを依頼した。
 
[[3月4日]](文久3年1月15日)、生麦事件に対する[[12月24日]]付けの本国からの要求が届いた。内容は幕府に対しては公式な謝罪と賠償金10万ポンドの支払い、薩摩に対しては犯人の処刑と2万5千ポンドの支払いを要求するものであった。訓令はまた、もし幕府がこれを拒否した場合は「船舶の捕獲または海上封鎖、あるいはその両者」を含む適切と思われる手段の実施を求め、薩摩が拒否した場合には艦隊を率いて鹿児島へ向かい、「港の封鎖、砲撃、蒸気船の拿捕」など最適な手段を取ることを求めていた。
 
[[3月22日]](2月4日)、一旦[[香港]]に戻っていたキューパーが3隻の軍艦を率いて横浜に到着した。さらに後続の艦が到着し、以前から横浜に停泊してた艦と合わせると12隻の大艦隊が横浜に集結した。この艦隊はもともとは「幕府への精神的支持」のためのものであったが、生麦事件交渉にあたり幕府への大きな圧力となった。[[4月6日]](2月19日)、ニールは日本語通訳官のユースデンを江戸に送り、東禅寺事件の賠償を再度要求するとともに、生麦事件に関する要求を幕府に伝え、20日間の猶予期間を与えた。この間に、幕府と英国の間に戦闘が開始されるのではないかとの噂が流れ、横浜の日本人は恐慌状態となり、多くが横浜を脱出した。
 
ところが、将軍[[徳川家茂]]以下主要な幕閣は[[京都]]に出向いており、江戸の留守政府はこのような重大な決定を下せず、[[4月24日]](3月7日)さらに30日の猶予を求めてきた。ニールは15日の猶予を認めたが、[[5月2日]](3月15日)、幕府がさらに15日間の猶予を求めてきたため、ニールは信頼できる高官の派遣を要請した。早速外国奉行竹本正雅と[[竹本正明]]が横浜に派遣され[[5月4日]]・5日の両日、ニール、ド・ベルクール、キューパー、フランスの[[バンジャマン・ジョレス|ジョレス]]提督が加わった会議が開かれた。フランスが加わったのは、これが幕府と英国の関係にとどまらず、条約締結国との問題であるとの理屈であった。ニールとド・ベルクールははここで、幕府が賠償金を支払い、かつ[[安政五カ国条約|条約]]順守の姿勢を見せた場合、英仏両国は幕府を軍事的に援助すると申し出た。これに対し竹本正雅は、幕府は賠償金の金額には合意するが、その支払い方法に関して意見があると述べた。結局、京都の将軍の合意を取り付けるためとの理由で、[[5月23日]](4月6日)が最終期限とされた。
 
期限から2日遅れた5月25日(4月8日)、竹本は横浜に戻り、軍事援助の申し出を断ると同時に、一両日中に賠償金の支払い方法を決定することに合意した。ところが竹本は「病気」になってしまい、代わりに6月7日(4月21日)になって外国奉行[[菊池隆吉]]がニールを訪れ、支払い方法の交渉に入った。翌日、賠償金総額44万ドルのうち、14万ドルを10日以内に支払い、残り30万ドルは5万ドルずつ毎週支払うことで合意した。しかし、ニールはこの時点でも実際に賠償金が支払われるか、軍事行動を取る必要があるかは五分五分と見ていた。
 
その後[[6月14日]](4月28日)に、[[6月18日]](5月3日)を第一回目の支払日とするとことが文書で確認された。ところが少し遡る[[6月6日]](4月20日)、京都の[[徳川家茂]]は[[6月25日]](5月10日)をもって攘夷を実行すると[[孝明天皇]]に約束させられていたのである。このため、支払い当日の朝になって、幕府は賠償金支払い中止し、[[老中]][[小笠原長行]]が[[6月20日]](5月5日)に出向く旨を伝えてきた。当然のことながら、ニールは激怒し、12時間の猶予は与えたものの、全額一括払いを条件として付け加えた。解決を目前にして事態は急展開し、結局6月20日、ニールは幕府に対する軍事行動をキューパー提督に委ねた。
 
まさに戦争直前の状態となったが、幕府はフランス公使ド・ベルクールとアメリカ公使[[ロバート・プルイン|プルイン]]と相談し、小笠原の独断によって、6月24日(5月9日)に賠償金44万ドルが一括して支払われた。こうして、幕府に対する賠償要求から80日、ニールは危機的状況に陥りながらも、問題の解決に成功した。
 
==脚注==
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== 参考文献 ==
* [[ヒュー・コータッツィ]]編著『歴代の駐日英国大使』文眞堂(2007、2007年)。ISBN 978-4830945878。P19-P61「エドワード・セント・ジョージ・ニール中佐」
*[[萩原延壽]]著『旅立ち 遠い崖1 アーネスト・サトウ日記抄』 (朝日新聞社、2007年)。ISBN 78-4022615435
 
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