「鎌倉三代記」の版間の差分
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鎌倉時代のこと、[[源頼朝]]亡き後の[[北条時政]]は、頼朝の遺児[[源頼家]]をないがしろにして幕府の実権を握ろうとし、[[佐々木高綱]]や[[和田義盛]]、[[三浦義村]]ら有力御家人との抗争を繰り広げ、ついには戦となっていた。
時政の娘時姫は父を裏切り三浦之助義村のもとに嫁ぎ、絹川村で年老いた三浦之助の母長門の看病に勤しんでいる。「されば風雅の歌人は、恋とや聞かん虫の音も、沢の蛙の声々も修羅の巷の戦いと」の浄瑠璃で、戦場で負傷した三浦之助が登場し、母親を見舞いに来る。しかし長門は喜ぶどころか、武門に生まれながら戦場を離れた息子の未練を叱り、「最早この世で顔合わす子は持たぬぞ。この障子の内は母が城郭、そのうろたえた魂で、薄紙一重のこの城が、破るるものなら破ってみよ
絶望した時姫がひとり思案に暮れているところへ、雑兵姿の百姓藤三郎が現れる。時政から時姫を助けたら褒美に姫と夫婦にしてやるといわれ、迎えに来たのだと否応なく迫ってくるので、姫は怒って切りつける。驚いた藤三郎は空井戸に飛び込んでしまう。
非道な父の仕打ちに姫は、「明日を限りの夫の命、疑われても添われいでも、思い極めた夫は一人」と懐剣で自害しようとするのを三浦之助が止め、心底見えたからには父時政を討てと命じる。「思案は如何にせりかけられ、どちらが重いと軽いとも、恩と恋との義理詰めに、詞は涙もろともに」
これで反撃の用意は整ったと喜ぶ三浦之助と高綱であったが、母長門はわざと時姫の手にかかり時姫と三浦之助の門出を祝って息絶える。時姫も未練なく父を討つ覚悟を決め、佐々木とともに陣所に、三浦之助も傷ついた身体を押して勇んで戦場にそれぞれ赴くのであった。
== 解説 ==
この『鎌倉三代記』については、明和6年([[1769年]])に上演された近松半二ほか作の[[人形浄瑠璃]]、『[[近江源氏先陣館]]』(おうみげんじせんじんやかた)との共通点も多い所から、翌年の明和7年に上演された『太平頭鍪飾』(たいへいかぶとのかざり)がその前身であり、作者も『近江源氏先陣館』と同じ執筆陣であろうという説が有力である。この『太平頭鍪飾』は初演当時、脚色上問題ありとして二十日ほどで幕府より上演を差し止められてしまった。そこでのちに『鎌倉三代記』と外題を改め、内容にも手を入れて上演するようにしたが、現在はその七段目
作品の背景は
舞台は三浦之助の登場から始まるが、もとはその前に時姫が、迎えの侍たちを連れた大時代な行列に豆腐を持って登場する「豆腐買」、村の女房が姫たちに飯の炊き方を伝授する「米とぎ」というユーモラスな場面が演じられていた。これらは現行の歌舞伎では通常カットされているが、文楽では演じられている。
前半部のクライマックスは、母に咎められ出陣しようとする三浦之助を時姫が止める件で、美しい男女が「思いは弱る後ろ髪」の浄瑠璃で弓を使ってポーズを決める個所は一番の見どころでもある。三浦之助と時姫が奥に引っ込んだ後、脇を固める
この作品のヒロイン時姫は「[[三姫]]」の一つに数えられる難役で、「赤姫」と呼ばれる華麗な深紅の衣装に気品さと可憐さが求められ、さらに恋人のために深窓の出にもかかわらず手ぬぐいをかぶって米を炊いだり、果てには父を殺す決意をする気の強さも持ち合わせなければならない。近代では[[中村歌右衛門 (5代目)|五代目]]と[[中村歌右衛門 (6代目)|六代目の中村歌右衛門]]が双璧とされた。五代目は「太陽のように輝いていた。」と[[三宅周太郎]]に絶賛されるなど一番の当たり役であった。対する三浦之助は、前髪姿ながらも智将の印象が求められ、[[中村鴈治郎 (初代)|初代中村鴈治郎]]や[[市村羽左衛門 (15代目)|十五代目市村羽左衛門]]などが当たり役としていた。
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