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{{出典の明記|date=2010年2月}}
'''評'''(こおり、ひょう)とは、645年の[[乙巳の変]]
==概要==
[[平安時代]]に書かれた『[[皇太神宮儀式帳]]』<ref>伊勢神宮の維持・運営担当者が伊勢大神宮司で
伊勢皇太神宮(内宮)の起源・組織・祭祀」などを記した書。
ところが、『[[日本書紀]]』には一貫して「[[郡]]」と表記されていた。これについて[[昭和]]26年
しかし、[[藤原宮]]などの発掘によって[[大宝律令]]制定以前に書かれた[[木簡]]の表現は全て「評」と記されており、逆に「郡」表記のものが存在しないことが明らかとなった。このため、今日では大宝律令制定以前は「評」と表現される地方行政組織が存在したと考えられている。
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その後、大宝律令の制定によって「評」は「郡」に改められることになるが、単に名前が変わっただけではなく、その際に統合・分割などの再編成が行われていたとも考えられている。
ただし、史料が少なく、その実態については諸説が分かれている。まず「立評」(評の設置)時期については『[[常陸国風土記]]』の説により
また、従来の[[国造]]が廃止あるいはそのまま評に移行されたのか、それとも国造などの支配に属していない[[朝廷]]支配地を対象として導入されたのかについても意見が分かれている。
さらに、木簡や[[金石文]]などから評の長官を'''評督'''(ひょうとく、こおりのかみ)・次官を'''助督'''(じょとく、こおりのすけ)を置き、その下に'''評史'''(ひょうし、こおりのふひと)などの実務官がいたと
なお、
== 評制の実施 ==
「評」は、[[国造]]のクニを分割・再編しながら、[[大化]]・[[白雉]]年間
*[[宣化天皇]]三年(538年) 大伴磐は[[大伴金村]]の子で、任那を救援した後、甲斐国山梨評山前邑
*[[藤原京]](694~710年)から「上毛野国車評桃井里大贄鮎」と記された荷札として付けられた木簡が見つかっている。<ref>松田猛・関口功一「国分寺のいらか 1 上野国の誕生」西垣晴次・山本隆志・丑木幸男編『群馬県の歴史』山川出版社 2003年11月 34ページ</ref>
*九州でも評制が施行された。「筑前国糟屋評」はのちの糟屋郡(かすやぐん、文武2年京都妙心寺鐘銘)、「衣評」は後の薩摩国穎娃郡(えい
*評に関する最古の史料は法隆寺旧蔵金剛観音菩薩像の銘文である。その銘文中に、辛亥年
*奈良県[[明日香村]]石神遺跡で平成14年
*藤原宮跡や出雲国庁跡出土の木簡によると、出雲評・楯縫評・大原評などの存在が知られる。『日本書紀』斉明五年
*出雲国国庁跡と推定されている松江市大草町にある六所神社周辺の発掘で、多数の遺構・遺物とともに「大原評□磯部安□」と記された木簡が出土している。
*奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から出土した木簡に「吉備道中国加夜評
*[[隠岐国]]の評については、飛鳥や藤原・平城京に送られた海産物などに付けた評・郷・里名、負担者名、物品名などの木簡が多量に発見されている。[[島前]]に知夫利(ちぶり)評・海評、[[島後]]に次(すき)評・衣地(えち)評が置かれた。
**知夫利評(郡)を例にとると、
***評制
***郡里制
***郡郷里制
***郡郷制
***『和名抄』では宇良郷・由良郷・三田郷
:のような編成
*「加毛評柞原里」(かもひょう みはらのり)と記された木簡が奈良県飛鳥池遺跡から出土し、芸備地方にも評制や里制が実施されていたことが分かる。この評里制にやや遅れて、7世紀末には
*藤原・平城両宮跡で[[調]]の貢進時に付けた木簡がたくさん出土している。そのなかに山口県の「熊毛評」と記された木簡がみつかっている<ref>倉住靖彦「古代の防長地方」 小川国治編『山口県の歴史』山川出版社 1998年 66ページ</ref>。
*飛鳥池遺跡からの出土木簡に[[伊予国]]の湯評(「湯評伊波田人葛木部鳥」)・久米評・藤原宮出土木簡に宇和評(「宇和評小□代熟」)などと記されていた<ref>寺内浩「古代国家と伊予国」 内田九州男・寺内浩・川岡勉・矢野達雄『愛媛県の歴史』山川出版社 2003年 42ページ</ref>。
*1999年(平成11年)11月、大阪市中央区前期難波宮跡から「戊申年」(648年)の紀年銘木簡の他に「秦人国評」などの木簡が出土している。この時期に評
▲*1999年(平成11年)11月、大阪市中央区前期難波宮跡から「戊申年」(648年)の紀年銘木簡の他に「秦人国評」などの木簡が出土している。この時期に評(こおり)が建て始められたと考えられる<ref>吉村武彦「古代の房総 3律令制国家の時代」 石井進・宇野俊一『千葉県の歴史』山川出版社 2000年7月 37ページ</ref>。
*699年(文武3年)、衣評督(えのこおりのかみ)衣君県らが肥人(ひひと、九州西部の島嶼部の人々)を従えて覓国使(べっこくし、南九州に令制国設置と南島路の開拓を進めるための朝廷からの使い)を剽却(ひょうきょう)する事件が起こった。このことから7世紀末には南九州に衣評という評が設定されていることが分かる<ref>永山修一「隼人と南島の世界 2律令国家と隼人・南島」 原口泉・永山修一・日隈正守・長尾千歳・皆村武一『鹿児島県の歴史』2002年2月 42-43ページ</ref>。
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== 脚注 ==
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