「ヴワディスワフ1世 (ポーランド王)」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[ファイル:Wojciech Gerson-Wladyslaw Lokietek.jpg|left|250px|thumb|逃避行上のヴワディスワフ1世]]
1260年頃、カジミェシュ1世の3男として生まれた。父が[[1267年]]に死去すると、レシェク2世ら兄弟達と共に父の遺領を分割相続し、[[クヤヴィ公国]]を獲得した。しかし兄弟達は子供を残さずに相次いで死去し、彼らの遺領を自分の領地に組み入れていく中で、ヴワディスワフは[[ポーランド王国]]の再統合事業を始めることになった。彼の次の目標は、ライバル関係にあった[[ポーランド国王|ポーランド王]][[プシェミスウ2世]]が領する[[マウォポルスカ県|マウォポルスカ]]を奪い取ることであった。
 
[[1288年]]にポーランド大公だった異母兄のレシェク2世が子供の無いまま没すると、従弟のプウォツク公[[ボレスワフ2世 (マゾフシェ公)|ボレスワフ2世]]と組んで[[ヴロツワフ]]公[[ヘンリク4世]]と争ったが、クラクフ市民の寝返りでヘンリク4世がクラクフを占領、大公位の座に就いた。[[1290年]]にヘンリク4世が急死、ライバル関係にあった[[ヴィエルコポルスカ県|ヴィエルコポルスカ]]公[[プシェミスウ2世]]が大公位を獲得、[[1295年]]に[[ポーランド国王|ポーランド王]]に即位した。ヴワディスワフの次の目標は、プシェミスウ2世が領する[[マウォポルスカ県|マウォポルスカ]]を奪い取ることであった。
[[1296年]]にプシェミスウ2世が[[暗殺]]されると、ヴワディスワフは先王からマウォポルスカと[[ポメラニア|ポモジェ]]を相続することを主張した。ヴワディスワフはポーランド人の君主を望むマウォポルスカの農民、騎士、一部の聖職者に支持されていたが、在地の領主達が支持する[[ボヘミア君主一覧|ボヘミア王]][[ヴァーツラフ2世]](1300年にポーランド王となる)にマウォポルスカを明け渡すことになった。
 
[[1296年]]にプシェミスウ2世が[[暗殺]]されると、ヴワディスワフは先王からマウォポルスカと[[ポメラニア|ポモジェ]]を相続することを主張した。ヴワディスワフはポーランド人の君主を望むマウォポルスカの農民、騎士、一部の聖職者に支持されていたが、在地の領主達が支持する[[ボヘミア君主一覧|ボヘミア王]][[ヴァーツラフ2世]](1300年にポーランド王となる)にマウォポルスカを明け渡すことになった。ヴィエルコポルスカについても、ヴワディスワフと並ぶポーランドの有力諸公だった[[グウォグフ公国|グウォグフ]]公[[ヘンリク3世 (グウォグフ公)|ヘンリク3世]]が相続を主張、幾度か衝突した末に[[1306年]]に敗れてヴィエルコポルスカはヘンリク3世の領有する所となった。
 
ヴワディスワフは国外への亡命を余儀なくされていたが、ボヘミア王によるポーランド支配はうまく行かず、さらにヴァーツラフ2世と息子[[ヴァーツラフ3世]]の相次ぐ急死でボヘミアは混乱状態に陥った。一方のヴワディスワフは[[1305年]]に帰国し、自身の支持者達の軍勢を引き連れてマウォポルスカを占領した。[[15世紀]]の歴史家[[ヤン・ドゥゴシュ]]によれば、ヴワディスワフの軍勢は騎士ではなく農民が主体になっていた。またヴワディスワフは[[グダニスク]]を中心に[[ポメレリア]]をも征服したが、在地の領主や[[ブランデンブルク]]から移住してきたドイツ人達の支持を得ることができず、[[バルト海]]沿岸に対する支配をあきらめざるを得なくなった。
 
[[ファイル:Wladyslaw Lokietek.jpg|left|200px|thumb|[[ヤン・マテイコ]]による肖像画]]
[[1309年]]、ヴワディスワフと並ぶポーランドの有力諸公だった[[グウォグフ公国|グウォグフ]]公[[ヘンリク3世 (グウォグフ公)|ヘンリク3世]]も死去した。[[1311年]]までに、ヴワディスワフはマウォポルスカと世襲領地クヤヴィにおける支配権を確固たるものにしていた。[[クラクフ]]と[[サンドミェシュ]]でのドイツ人支配層の反乱([[ヴイト・アルベルトの反乱]])も起きたが、ヴワディスワフは同地の貴族、地主、都市民の支持を受けていたため、支配権を失うことはなかった。[[1312年]]に[[レグニツァ公国|レグニツァ]]公[[ボレスワフ3世ロズジュトヌィ|ボレスワフ3世]]・[[ヘンリク6世ドブルィ|ヘンリク6世]]兄弟と同盟を結びヘンリク3世の遺児[[ヘンリク4世ヴィエルヌィ|ヘンリク4世]]・[[コンラト1世 (オレシニツァ公)|コンラト1世]]らと戦い、[[1314年]]にはかつてヘンリク3世を支持していた[[ヴィエルコポルスカ県|ヴィエルコポルスカ]]もヴワディスワフの領国に組み込まれた。
 
[[1318年]]、ヴワディスワフはポーランド王冠の獲得に乗り出した。[[教皇]][[ヨハネス22世 (ローマ教皇)|ヨハネス22世]]はボヘミア王[[ヨハン・フォン・ルクセンブルク|ヨハン]]がポーランド王位を主張していたこともあって当初は認可を渋ったが、最終的にはこれを容認した。1320年1月20日、ヴワディスワフはポーランド王としてクラクフで戴冠した。この戴冠式は、ポーランドが再統合された独立の王国になったという政治的な主張であった。但し、[[シロンスク公国群]]の諸公はヨハンに臣従、ボヘミアの封臣となっている
 
ヴワディスワフ1世は晩年を[[ドイツ騎士団]]との戦争に費やすことになった([[ポーランド・テュートン戦争 (1326年-1332年)|ポーランド・テュートン戦争]])。ボヘミア王ヨハンもポーランド王位を諦めておらず、ドイツ騎士団と同盟して北と西からポーランド王国を攻めた。[[1328年]]にはボヘミアと騎士団の連合軍が[[ドブジン]]を奪取した。ヴワディスワフ1世は[[1331年]][[9月27日]]、クヤヴィ地方、[[ラジェユフ]]近郊の[[プウォフツェの戦い]]で騎士団に復讐した。この戦いでヴワディスワフ1世は[[十字軍]]を標榜するドイツ騎士団を打ち負かして、彼らの領土拡大をなんとか食い止めた。
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ヴワディスワフ1世は、自分の支配するポーランドの諸地域に単一の法典を適用しようと務めた。この法典では、[[ユダヤ人]]にもキリスト教徒と同様の安全と自由が保障されるように取り計らわれた。
 
1333年3月2日、73歳の高齢でクラクフで死去した。息子の[[カジミェシュ3世 (ポーランド王)|カジミェシュ3世]]が引き継いだポーランドの「王国」は、マウォポルスカ、サンドミェシュ、ヴィエルコポルスカ、クヤヴィ、シェラツ、ウェンチツァのみという狭いものだった。西の[[シレジア|シロンスク]]と[[ルブシュ]]、北の東西ポモジェおよび[[マゾフシェ]]は「王国」の領域から外れたままになっていた。それでも、ヴワディスワフ1世の治世はポーランドの再統一を大きく前進させたことは間違いない。
 
== 子女 ==