「第二次王子の乱」の版間の差分

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事件そのものは、王位継承権をめぐる兄弟間の抗争であったため、政治的影響は少なかったが、この事件の結果、もはや芳遠に対抗できる政治勢力はなくなり、[[李芳遠]]の独裁による一連の王権強化策が実現されて、朝鮮王朝の基盤が固まった。
[[1398年]]の[[第一次王子の乱]]の当事者で、この事件の結果権力を掌握した李芳遠は、軍制の改革に着手し、王権の不安定要素である王族の私兵の廃止を推し進めた。当時、太祖の王子たちので、芳遠に対抗できるのは、すぐ上の兄李芳幹しかいなかった。私兵の廃止を迫られた芳幹は身の危険を感じ、密かに私兵を強化していた。そんな時第一次王子の乱で功がありながら、その後の処遇に不平を抱き、芳遠に恨みを抱いていた朴苞が、芳遠の殺害計画を芳幹に密告したため、芳幹は開京に進軍し、激しい市街戦ののちに芳遠の軍に鎮圧された。朴苞は処刑され、芳幹は生涯流刑となった。
この情況を見ていた国王定宗とその妃・定安王后は、このままではいずれ自分たちに害が及ぶことは必至であることを悟り、世弟芳遠に対し譲位を申し出た。こうして[[1400年]][[11月]]に、芳遠は第3代国王(太宗)として即位した。