「不条理演劇」の版間の差分

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'''不条理演劇(ふじょうりえんげき)'''とは、[[サミュエル・ベケット|ベケット]]や[[ウジェーヌ・イヨネスコ|イヨネスコ]]人間ハロルド・ピンターやエドワード・オールビーなどの[[劇作家]]表され人の不条理性や不毛性を描こうとすような、[[戯曲]]や[[演劇]]の手法もしくはその手法に基づく演劇活動そのものを指す。[[評論家]]マーティン・エスリンの著書『不条理演劇』(''The Theatre of the Absurd'' [[1962年]])で命名され、定着した。日本での代表的な書き手としては、[[別役実]]などが挙げられる
 
不条理演劇の代表的に作り手には、[[サミュエル・ベケット|ベケット]]や[[ウジェーヌ・イヨネスコ|イヨネスコ]]、ハロルド・ピンターやエドワード・オールビーなどの[[劇作家]]がいる。日本では[[別役実]]などが代表的存在。
 
不条理演劇が生まれた背景には、[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]、[[ジャン=ポール・サルトル|サルトル]]、[[フランツ・カフカ|カフカ]]や[[アルベール・カミュ]]などによる実存主義思想と、[[第二次世界大戦]]でヨーロッパが受けた衝撃と荒廃がある。
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カミュは、人間は不条理な存在であるとした(『シジフォスの神話』[[1942年]])。先述の評論家マーティン・エスリンは、不条理な人間存在を描く劇作家達の作品や活動を、カミュの論を元に不条理演劇と名付けた。
 
不条理演劇以前のリアリズム演劇においては、登場人物たちによる状況の変化を求める行動が、具体的に新たな状況を具体的に生み出し、最終的状況が打開されるか、悲劇的な結末を迎える。このダイナミズムがストーリーの軸となっている。行動とその結果の因果律が明確な世界観と言える。
典型的な不条理演劇では、[[ドラマ]]を伴わないストーリーや、繰り返しの多い会話や行動などの特徴が見られる。登場人物を取り巻く状況は行き詰まっており、閉塞感が漂っている。彼らはそれに対しなんらかの変化を求める。
 
これに対し、不条理演劇では、登場人物の行動とその結果、時にはその存在そのものが、因果律から切り離されるか、曖昧なものとして扱われる。登場人物を取り巻く状況は最初から行き詰まっており、閉塞感が漂っている。彼らはそれに対しなんらかの変化を望むが、その合理的解決方法はなく、とりとめもない会話や不毛で無意味な行動の中に登場人物は埋もれていく。ストーリーは大抵[[ドラマ]]を伴わずに進行し、非論理的な展開をみせる。そして世界に変化を起こそうという試みは徒労に終わり、状況の閉塞感はより色濃くなっていく。
不条理演劇以前のリアリズム演劇においては、状況の変化を求める行動が、具体的に新たな状況を生み出し、時には状況が打開される。行動とその結果の因果律が明確な世界観と言える。
 
[[言語]]によるコミュニケーションそのものの不毛性にも着目し、言葉を切りつめたり、台詞の内容から意味をなくしたりする傾向も見られる。また、舞台装置や小道具を、登場人物の心理的状況をなんらかの形で象徴するものとして扱うことも多く見られる。その好例としては、ベケットの代表作『ゴドーを待ちながら』に出てくるぽつんと立つ1本の木や、別役実作品に度々登場する電信柱などが挙げられる。
これに対し、不条理演劇では、世界に変化を起こそうという試みは徒労に終わる。変化を望みつつも、その合理的解決方法はなく、とりとめもない会話や行動の中に登場人物は埋もれていく。その結果世界はなにも変わらず、状況の閉塞感はより色濃くなっていく。
 
このような手法を用いた結果、人間の不毛さを描きながらも、詩的で鮮やかで、時にはコミカルな世界が、舞台上に描き出されることとなった。
 
不条理演劇が現代演劇に与えた影響は極めて大きい。それは、不条理演劇の系譜を受け継ぐ舞台作品のみならず、従来からあるリアリズム演劇や、その他の様々な分野に及んだ。また演劇のみならず、[[映画]]や[[テレビドラマ]]など、他のメディアにおける芸術表現においても、状況や登場人物の設定になんらかの形で不条理演劇的な要素を組み込むことで、その内容がリアルな現代を描いたものであることを強調するテクニックが使われるようになった。
[[en:Theatre of the Absurd]]
 
 
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==関連項目==
* [[演劇]]
 
[[en:Theatre of the Absurd]]