「バイユーのタペストリー」の版間の差分

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以前はウィリアム1世の王妃マティルダが征服を記念して[[寄付|寄進]]したものとされ、「王妃マティルダのタペストリー」と呼ばれていたが、近年の研究ではウィリアム1世の異父弟であったバイユー司教のオドン(バイユー[[司教]]オド、[[w:Odo of Bayeux|en]])が作らせたものと考えられている。理由としては、オドンを含む3人の司教がタペストリーに描かれていることと、オドン司教が建立したバイユー大聖堂に、当初からタペストリーが飾られていたと考えられるからである。
 
その後、[[18世紀]]までタペストリーの存在は忘れ去られており、[[フランス革命]]時には武器箱の覆いに使用されていたのを地元の[[弁護士]]が気づき、危うく喪失を免れている。[[1803年]]に[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]が[[パリ]]に持ち帰ったが、これは[[イギリス]]侵攻の参考にするためであったという。その後、バイユーに戻されたが、[[第二次世界大戦]]中にはドイツ軍が接収。戦後、フランスに戻り、[[ルーブル美術館]]の地下に保管されていた。現在では故郷の大聖堂内に戻され、フランス国宝としてバイユー・タペストリー美術館(''Musee de la Tapisserie de Bayeux'')に保管・展示されている。
 
== タペストリーに描かれているもの ==<!--直接的と比喩的の両面-->