「古典園芸植物」の版間の差分

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しまあじ (会話 | 投稿記録)
{{誰}}が貼られた日時:2009年3月13日08:34(UTC)
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江戸時代はことのほか園芸が発達するが、その要因として、もともと[[江戸幕府]]の歴代[[征夷大将軍|将軍]](特に初代から三代)が非常な花好きであり、その影響が大きいとされる。ただし前述のようにその素地ははるかに以前より存在していたと言える。将軍への献上等のために各[[藩]]は自慢の植物を「お留花」として門外不出とし、散逸を厳しく制限することもあった。しかし江戸時代全般を通じ[[参勤交代]]や[[交通]]、[[流通]]の発展により各地の植物が行き来して、[[三都]]をはじめ各都市に集積した。また[[大都市]]近郊には大規模な園芸商が興隆し、都市の園芸植物の需要に応えていた。江戸近郊の[[染井]]もそのような園芸商集積地の一つで、中でも伊藤家は代表的な園芸商のひとつであり、代々、広大な[[江戸城]]や大名屋敷、旗本屋敷に種苗を供給する役目を果たしたり、園芸書も多数刊行している。サクラの[[ソメイヨシノ]]も染井で生まれたという説が有力である。
 
更には[[本草学]]の発展とも関連し、園芸は全国的な展開を見た。またごく初期には[[上方]]で発展が始まったことは他の文化と同様であるが、かなり早くから江戸でも発展が見られたことも特徴で、これは将軍とのつながりからも頷けることである。これら上方や江戸以外でも、[[熊本]]、[[伊勢]]、[[久留米]]、[[名古屋]]などで地域独特の園芸文化も花開いた。熊本の「[[肥後六花]]」(肥後椿、肥後山茶花、肥後菊、肥後芍薬、肥後朝顔、肥後花菖蒲)や伊勢の伊勢菊、伊勢撫子、伊勢花菖蒲、また久留米の[[クルメツツジ]]などは有名である。図譜類、園芸書の出版も相次ぎ、[[音楽]]作品にも「椿尽し」(松島[[検校]]作曲)や「桜尽し」、「つつじ」([[佐山検校]]作曲)(共に[[地歌]]・[[箏曲]])をはじめとして、園芸植物の品種を多数詠み込んだ楽曲がいくつも作られたりもした。例えば「椿尽し」にはツバキが22品種も詠み込まれている。これらを見ても当時、園芸がいかに文化として大きな地位を築き上げていたかが想像できる。
 
江戸時代初期には、[[安土桃山時代]]から引き継ぐ形で、まず[[シャクヤク]]、[[キク]]、[[ボタン (植物)|ボタン]]、ツバキ、ツツジなどが盛んになり、やがて[[カキツバタ]]、マツモトセンノウ、[[アサガオ]]、[[ナデシコ]]、[[サクラソウ]]等が加わった。更に江戸時代中期から幕末にかけ[[カエデ]]、[[オモト]]、[[マンリョウ]]、[[マツバラン]]、[[セッコク]]のような葉の変異を追求する植物が非常に増えた。日本文化の中心は[[照葉樹林]]帯にあり、ここに産する植物に葉の美しいものが多かったためもあるであろう。江戸時代後半には[[ハナショウブ]]や、[[小氷期|気候の寒冷化]]も手伝ってか[[フクジュソウ]]、[[ミスミソウ]]など落葉広葉樹林帯植物も[[品種]]を増やした。マツモトセンノウは[[元禄]]、享保の頃には多数の品種があったが、その後[[化政]]に至るまでに散逸してしまったらしい。またカキツバタは江戸時代中期の段階ではハナショウブよりも品種が多かったが、その後あまり進展せず、幕末にはハナショウブが圧倒的な発展を示すようになる。このように江戸時代だけでも種々盛衰の波があった。