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{{基礎情報 中国君主
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|代数 =
|呼称 =皇帝
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|説明 =
|王朝 =東晋
|在位期間 =[[
|都城 =
|諱 =司馬
|字 =世
|諡号 =
|廟号 =顕宗
|生年 =[[
|没年 =[[
|父 =[[明帝 (東晋)|明帝]]
|母 =
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|陵墓 =崇平陵
|年号 =[[
|注釈 =
}}
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== 概要 ==
342年、兄である成帝の死により、急遽皇位を継いだ。この当時成帝には幼い子がいたが、外戚としての専権を失うことを恐れた{{Lang|zh|庾}}冰により、「国難の時期に幼帝はふさわしくない」との名目で、同母弟である康帝が皇位に就けられた。
短い治世のほとんどは[[後趙]]の[[石虎]]との戦いに費やされた。なお、この戦いの中で、後代に実権を握る[[桓温]]が頭角を現している。
皇帝としての力量を発揮する間もなく、在位2年ほどで兄と同様に早世した。
== 生涯 ==
諱は
[[咸和]]元年に呉王に封じられ、同2年に琅邪王に転封された。同9年に[[散騎常侍]]に任命され、[[驃騎将軍]]を加官された。[[咸康]]5年、[[侍中]]に転任となり、[[司徒]]となった。
咸康8年6月、成帝は体調を崩し、詔を出して琅邪王の司馬岳を後継者に指名した。まもなく成帝は死去した。
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初,成帝有疾,中書令庾冰自以舅氏當朝,權侔人主,恐異世之後,戚屬將疏,乃言國有強敵,宜立長君,遂以帝為嗣。制度年號,再興中朝,因改元曰建元。或謂冰曰:「郭璞讖雲'立始之際丘山傾',立者,建也;始者,元也;丘山,諱也。」冰瞿然,既而歎曰:「如有吉凶,豈改易所能救乎?」至是果驗雲。
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康帝は即位すると、大赦を実行した。<!--諸屯戍文武及二千石官長,不得輒離所局而來奔赴。-->成帝の子の[[司馬丕]]を琅邪王に、[[司馬奕]]を東海王に封じた。<!--時帝諒陰不言,-->政治は庾冰と[[何充]]に委ねられた。秋7月、成帝を興平陵に葬った。<!--帝親奉奠於西階,既發引,徒行至閶闔門,升素輿,至於陵所。-->中書令の何充を驃騎将軍に任命した。8月、彭城王の[[司馬紘]]が死去した。江州刺史の[[王允之]]が[[衛将軍]]に任命された。<!--9月、詔琅邪国及府史進位各有差。-->冬10月、衛将軍の王允之が死去した。12月<!--,增文武位二等。-->褚氏を皇后とした。
[[建元]]元年春正月、改元を実行した。<!--振恤鰥寡孤獨。-->3月、中書監の庾冰を車騎将軍に任命した。夏4月、益州刺史の[[周撫]]、西陽太守の[[曹據]]が[[李壽]]を討伐したが、其将の[[李恆]]と江陽で戦って敗れた。5月、旱が起きた。6月、<!--又以束帛征-->処士の尋陽の[[翟湯]]と[[会稽]]の[[虞喜]]に贈り物をした。<!--有司奏,成帝崩一周,請改素服,禦進膳如舊。-->康帝は詔勅を出した。<!--壬寅,詔曰:「禮之降殺,因時而寢興,誠無常矣。至於君親相准,名教之重,莫之改也。權制之作,蓋出近代,雖曰適事,實弊薄之始。先王崇之,後世猶怠,而況因循,又從輕降,義弗可矣。」-->[[石季龍]]が軍勢を率いて[[慕容皝]]を攻撃し、慕容皝が大敗した。秋7月、石季龍の将の[[戴開]]が軍勢を率いて降伏してきた。康帝は詔勅を出し、戴開の降伏を歓迎した<!--丁巳,詔曰:「慕容皝摧殄羯寇,乃雲死沒八萬餘人,將是其天亡之始也。中原之事,宜加籌量。且戴開已帥部黨歸順,宜見慰勞。其遣使詣安西、驃騎,咨謀諸軍事。」-->。輔國将軍、琅邪内史の[[桓温]]を前鋒小督・假節とし、軍勢を率いて臨淮に侵入させた。安西将軍の[[庾翼]]を征討大都督に任命し、襄陽に転任させた。晋陵、呉郡で災害が起きた。8月、李壽が死去し、[[李勢]]が跡を継いだ。石季龍がその将の[[劉甯]]を派遣し、狄道を攻撃して陥落させた。冬10月、車騎將軍の庾冰を都督荊江司雍益梁六州諸軍事・江州刺史とし、驃騎将軍の何充を中書監・都督揚豫二州諸軍事・揚州刺史・録尚書事とし、輔政させた。琅邪内史の桓温を都督青徐兗三州諸軍事・徐州刺史とし、[[褚裒]]を衛将軍・領中書令とした。11月、大赦を実行した。12月、石季龍が張駿を攻撃し、張駿は将軍の[[謝艾]]に防戦させた。河西において大戦となり、石季龍が敗れた。12月、[[高句驪]]が使者を送り朝献してきた。
建元2年春正月、張駿が其将の[[和驎]]、[[謝艾]]を派遣し南羌を討伐させ、闐和で戦って大いに破った。2月、慕容皝と鮮卑の[[宇文歸]]が昌黎で戦い、宇文歸の軍は大敗し、漠北に逃亡した。4月、張駿の将の[[張瓘]]が石季龍の将の[[王擢]]と三交城で戦って敗れた。秋8月、安西将軍の[[庾翼]]を征西将軍に昇進させた。持節・都督司雍梁三州諸軍事・梁州刺史・平北将軍・竟陵公の[[桓宣]]が死去した。衛将軍の褚裒が[[特進]]・都督徐兗二州諸軍事・兗州刺史に任命され、金城に出陳した。9月、巴東太守の[[楊謙]]が李勢の将の[[申陽]]を攻撃し敗走させ、その将の楽高を捕虜とした。康帝は皇子の[[司馬聃]]を皇太子とした。康帝は式乾殿において死去した。23歳であった。崇平陵に葬られた。
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==宗室==
===子===
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*『晋書』([[:zh:s:晉書/卷007]]、[http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/8783/kanseki/text/shinjo/07-2.html|日本語訳の一例])
▲== 参考資料 ==
▲{{東晋の皇帝|325年-342年}}
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[[Category:晋の皇帝]]
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▲{{Chinese-history-stub}}
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[[zh:晉
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