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『晋書』の帝紀より、下書きを作成。康帝 (東晋)よりの転記を含む。
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1行目:
{{基礎情報 中国君主
|名 =帝 司馬
|代数 =34
|呼称 =皇帝
|画像 =
|説明 =
|王朝 =東晋
|在位期間 =[[325342年]] - [[342344年]]
|都城 =
|諱 =司馬
|字 =世
|諡号 =皇帝
|廟号 =顕宗
|生年 =[[321322年]]
|没年 =[[342344年]]
|父 =[[明帝 (東晋)|明帝]]
|母 ={{Lang|zh|庾}}太后
|皇后 =
|陵墓 =崇平陵
|年号 =[[咸和]]([[326年]] - [[334年]])</br>[[咸康建元 (東晋)|咸康建元]]([[335343年]] - [[342344年]])
|注釈 =
}}
'''帝'''(せいこうてい)は、[[東晋]]の第34代[[皇帝]]。第3代皇帝[[成帝 (東晋)|成帝]]の同母弟
 
== 概要 ==
342年、兄である成帝の死により、急遽皇位を継いだ。この当時成帝には幼い子がいたが、外戚としての専権を失うことを恐れた{{Lang|zh|庾}}冰により、「国難の時期に幼帝はふさわしくない」との名目で、同母弟である康帝が皇位に就けられた。
父・[[明帝 (東晋)|明帝]]が28歳で逝去したことにより幼くして即位し、生母の{{Lang|zh|庾}}太后(庾文君)が実際の政務を執った。{{Lang|zh|庾}}太后の死後は、[[王導]]と[[ユ亮|庾亮]](庾太后の兄)が引き続き政務を執った。
 
短い治世のほとんどは[[後趙]]の[[石虎]]との戦いに費やされた。なお、この戦いの中で、後代に実権を握る[[桓温]]が頭角を現している。
[[329年]]、[[蘇峻]]の反乱が起き、成帝らは一時捕らえられて石頭城に移されたが、[[329年]]に乱が鎮圧されて再び建康に戻った。また、北方に対しても何度も出兵したが、[[石虎]]の軍に阻まれて勢力の拡大は果たせなかった。
 
皇帝としての力量を発揮する間もなく、在位2年ほどで兄と同様に早世した。
また、豪族らの山川の私有化に対抗するため、[[336年]]にこれを禁じた。また[[341年]]には、[[土断]]により、東晋建国時に北から移ってきた貴族たちを戸籍に編入した。
<!-- もう少し分かりやすい説明が必要。ここは東晋法制の重要トピックなので別記事を立てても良いかも -->
 
しかし、342年に若くして急逝する。
 
== 生涯 ==
諱は衍、司馬岳。字は世帝の長子同母弟に当たる
 
[[咸和]]元年に呉王に封じられ、同2年に琅邪王に転封された。同9年に[[散騎常侍]]に任命され、[[驃騎将軍]]を加官された。[[咸康]]5年、[[侍中]]に転任となり、[[司徒]]となった。
[[太寧]]3年3月、皇太子となる。閏月、明帝が死去し、皇帝に即位した。大赦を実行し、臣下と民衆に褒美と施しを与えた。皇后の庾氏を皇太后とした。
 
咸康8年6月、成帝は体調を崩し、詔を出して琅邪王の司馬岳を後継者に指名した。まもなく成帝は死去した。
秋9月、皇太后が臨朝した。司徒の[[王導]]を録尚書事とし、中書令の[[ユ亮|庾亮]]を朝政に参加させた。撫軍将軍・南頓王の[[司馬宗]]を驃騎将軍とし、領軍将軍・汝南王の[[司馬祐]]を衛将軍に任命した。明帝を武平陵に葬った。冬11月、日蝕が起きた。広陵相の[[曹渾]]が罪を得て、獄死した。
<!--
  初,成帝有疾,中書令庾冰自以舅氏當朝,權侔人主,恐異世之後,戚屬將疏,乃言國有強敵,宜立長君,遂以帝為嗣。制度年號,再興中朝,因改元曰建元。或謂冰曰:「郭璞讖雲'立始之際丘山傾',立者,建也;始者,元也;丘山,諱也。」冰瞿然,既而歎曰:「如有吉凶,豈改易所能救乎?」至是果驗雲。
-->
 
康帝は即位すると、大赦を実行した。<!--諸屯戍文武及二千石官長,不得輒離所局而來奔赴。-->成帝の子の[[司馬丕]]を琅邪王に、[[司馬奕]]を東海王に封じた。<!--時帝諒陰不言,-->政治は庾冰と[[何充]]に委ねられた。秋7月、成帝を興平陵に葬った。<!--帝親奉奠於西階,既發引,徒行至閶闔門,升素輿,至於陵所。-->中書令の何充を驃騎将軍に任命した。8月、彭城王の[[司馬紘]]が死去した。江州刺史の[[王允之]]が[[衛将軍]]に任命された。<!--9月、詔琅邪国及府史進位各有差。-->冬10月、衛将軍の王允之が死去した。12月<!--,增文武位二等。-->褚氏を皇后とした。
[[咸和]]元年春2月、大赦を実行し、改元を行った。<!--大酺五日,賜鰥寡孤老米,二人斛,京師百里內複一年。-->
 
[[建元]]元年春正月、改元を実行した。<!--振恤鰥寡孤獨。-->3月、中書監の庾冰を車騎将軍に任命した。夏4月、益州刺史の[[周撫]]、西陽太守の[[曹據]]が[[李壽]]を討伐したが、其将の[[李恆]]と江陽で戦って敗れた。5月、旱が起きた。6月、<!--又以束帛征-->処士の尋陽の[[翟湯]]と[[会稽]]の[[虞喜]]に贈り物をした。<!--有司奏,成帝崩一周,請改素服,禦進膳如舊。-->康帝は詔勅を出した。<!--壬寅,詔曰:「禮之降殺,因時而寢興,誠無常矣。至於君親相准,名教之重,莫之改也。權制之作,蓋出近代,雖曰適事,實弊薄之始。先王崇之,後世猶怠,而況因循,又從輕降,義弗可矣。」-->[[石季龍]]が軍勢を率いて[[慕容皝]]を攻撃し、慕容皝が大敗した。秋7月、石季龍の将の[[戴開]]が軍勢を率いて降伏してきた。康帝は詔勅を出し、戴開の降伏を歓迎した<!--丁巳,詔曰:「慕容皝摧殄羯寇,乃雲死沒八萬餘人,將是其天亡之始也。中原之事,宜加籌量。且戴開已帥部黨歸順,宜見慰勞。其遣使詣安西、驃騎,咨謀諸軍事。」-->。輔國将軍、琅邪内史の[[桓温]]を前鋒小督・假節とし、軍勢を率いて臨淮に侵入させた。安西将軍の[[庾翼]]を征討大都督に任命し、襄陽に転任させた。晋陵、呉郡で災害が起きた。8月、李壽が死去し、[[李勢]]が跡を継いだ。石季龍がその将の[[劉甯]]を派遣し、狄道を攻撃して陥落させた。冬10月、車騎將軍の庾冰を都督荊江司雍益梁六州諸軍事・江州刺史とし、驃騎将軍の何充を中書監・都督揚豫二州諸軍事・揚州刺史・録尚書事とし、輔政させた。琅邪内史の桓温を都督青徐兗三州諸軍事・徐州刺史とし、[[褚裒]]を衛将軍・領中書令とした。11月、大赦を実行した。12月、石季龍が張駿を攻撃し、張駿は将軍の[[謝艾]]に防戦させた。河西において大戦となり、石季龍が敗れた。12月、[[高句驪]]が使者を送り朝献してきた。
夏4月、[[石勒]]がその将の[[石生]]を派遣し汝南を侵略し、汝南人の執内史の[[祖済]]が反乱を起こした。尚書左僕射の鄧攸が死去した。5月、大水が発生した。6月、使持節・散騎常侍・監淮北諸軍事・北中郎将・徐州刺史・泉陵公の[[劉遐]]が死去した。車騎将軍の[[郗鑒]]が領徐州刺史に、征虜将軍の[[郭默]]が北中郎将・假節・監淮北諸軍に任命された。劉遐の部曲将の李龍、劉遐の子の[[劉肇]]に位を継がせるために郭默を排除しようとしたため、臨淮太守の[[劉矯]]は李龍を攻撃し斬り、首を建康へ送った。秋7月、使持節・都督江州諸軍事・江州刺史・平南将軍・觀陽伯の[[應詹]]が死去した。8月、給事中・前将軍・丹陽尹の[[溫嶠]]を平南将軍・假節・都督・江州刺史に任命した。9月、旱が起きた。李雄の将の張龍が涪陵に侵略し、太守の謝俊を執した。冬10月、[[魏 (三国)|魏]]の[[曹操|武帝]]の玄孫である[[曹勵]]を陳留王に任命し、魏の社稷を継がせた。衛将軍・汝南王の司馬祐が死去した。皇弟の[[司馬岳]]を呉王に任命した。車騎将軍。南頓王の司馬宗が罪を得て,誅殺され、その一族は馬氏に降格された。太宰・西陽王の[[司馬羕]]が免職となり、降格され弋陽県王とされた。<!--庚辰,赦百里內五歲以下刑。-->この月、[[劉曜]]の将の[[黃秀]]が酂を攻撃し、平北将軍の魏該が軍を引き連れて襄陽に逃れた。11月、<!--大閱於南郊。改定王侯國秩,九分食一。-->石勒の将の[[石聰]]が壽陽を攻撃し、そのまま逡遒、阜陵にまで侵攻してきた。司徒の王導に大司馬を加官し・假黃鉞・都督中外征討諸軍事とした。歴陽太守の[[蘇峻]]が其将の[[韓晃]]を派遣し石聰を攻撃し、敗走させた。大旱が起き、六月よりこの月まで雨がずっと降らなかった。12月、済岷太守の[[劉闓]]が下邳の内史の[[夏侯嘉]]を殺害し、石勒に降伏した。梁王の[[司馬翹]]が死去した。
 
建元2年春正月、張駿が其将の[[和驎]]、[[謝艾]]を派遣し南羌を討伐させ、闐和で戦って大いに破った。2月、慕容皝と鮮卑の[[宇文歸]]が昌黎で戦い、宇文歸の軍は大敗し、漠北に逃亡した。4月、張駿の将の[[張瓘]]が石季龍の将の[[王擢]]と三交城で戦って敗れた。秋8月、安西将軍の[[庾翼]]を征西将軍に昇進させた。持節・都督司雍梁三州諸軍事・梁州刺史・平北将軍・竟陵公の[[桓宣]]が死去した。衛将軍の褚裒が[[特進]]・都督徐兗二州諸軍事・兗州刺史に任命され、金城に出陳した。9月、巴東太守の[[楊謙]]が李勢の将の[[申陽]]を攻撃し敗走させ、その将の楽高を捕虜とした。康帝は皇子の[[司馬聃]]を皇太子とした。康帝は式乾殿において死去した。23歳であった。崇平陵に葬られた。
咸和2年春正月、甯州の秀才の[[龐遺]]が義兵を起こし、李雄の将の任回、李謙等を攻撃した。李雄は其将の羅恆、費黑を遣わして救援させた。甯州刺史の[[尹奉]]はその裨将の姚岳と朱提太守の[[楊術]]を龐遺の援軍に送った。台登において戦となったが敗北し、楊術は戦死した。3月、益州で地震が起きた。夏4月、旱が起き、豫章で地震が発生した。5月、日蝕が起きた。豫州刺史の[[祖約]]に鎮西将軍を加官した。都で大水が起きた。冬10月、劉曜がその子の[[劉胤]]を派遣し枹罕を侵攻させ、河南の地まで侵略した。11月、豫州刺史の祖約、歴陽太守の蘇峻等が反乱を起こした。12月、蘇峻はその将の韓晃を姑孰に送り、於湖で虐殺を行った。彭城王の[[司馬雄]]、章武王の[[司馬休]]が反乱を起こし、蘇峻に合流した。都は戒厳状態となった。假の護軍将軍の庾亮は節を与えられ征討都督となり、右衛将軍の[[趙胤]]が冠軍将軍・歴陽太守に任命され、左将軍の[[司馬流]]と共に蘇峻を防いだが、慈湖での戦いで司馬流は敗れ、戦死した。假の驍騎將軍の鐘雅は節を与えられ、水軍を統率し、趙胤の軍の先鋒となり、蘇峻を防いだ。琅邪王の[[司馬昱]]が会稽王に、呉王の[[司馬嶽]]が琅邪王に封じられた。宣城內の[[桓彝]]が蘇峻と蕪湖において戦い、桓彝の軍は敗北した。軍騎将軍の郗鑒は広陵相の[[劉矩]]を遣わし都を守備させた。
 
咸和3年春正月、平南将軍の溫嶠が軍を率いて都を救援し、尋陽において、督護の王愆期、西陽太守の鄧岳、鄱陽太守の紀睦を派遣し前鋒とした。征西大将軍の[[陶侃]]は督護の[[龔登]]を派遣し、温嶠の節度を受けさせた。鐘雅、趙胤らは慈湖に。王愆期、鄧嶽等は直瀆に布陣した。蘇峻は橫江に赴き、牛渚へ登った。2月、蘇峻は蔣山にまで至った。假領軍将軍の[[卞壼]]が節を受けて、六軍を率いて蘇峻と西陵において戦ったが、晋軍が敗れた。蘇峻は青溪柵を攻撃し、<!--因風縱火,-->晋軍は又も大敗した。尚書令・領軍将軍の卞壼、丹陽尹の羊曼、黃門侍郎の周導、廬江太守の陶瞻が殺害され、死者は数千人に登った。庾亮は宣陽門において敗北し、一族を引き連れて郭默、趙胤らと尋陽に逃亡した。司徒の王導、右光禄大夫の[[陸曄]]、[[荀崧]]らは成帝を守って太極殿を守備し、太常の孔愉が宗廟を守った。賊らは勝ち誇って宮殿に乱入し、略奪をほしいままにした。<!--賊乘勝麾戈接於帝座,突入太后後宮,左右侍人皆見掠奪。是時太官唯有燒余米數石,以供禦膳。百姓號泣,響震都邑。-->蘇峻は偽の詔を出して大赦を実行し、祖約を侍中・太尉・尚書令に任命し、自らは驃騎将軍・錄尚書事となった。呉郡太守の[[庾冰]]は会稽に逃亡した。3月、皇太后の庾氏が死去した。夏4月、石勒が宛を攻撃し、南陽太守の王國が叛いて石勒に降伏した。明穆皇后を武平陵に葬った。5月、蘇峻は石頭城で成帝を圧迫し、成帝は涙を流し、宮中も慟哭した。蘇峻は倉屋を宮とし、遣管商、張瑾、弘徽を晋陵へ,韓晃を義興へ侵攻させた。呉興太守の[[虞潭]]は庚冰、王舒と共に三呉において義兵を挙げた。征西大将軍の陶侃、平南将軍の溫嶠、護軍将軍の庾亮、平北将軍の魏該が水軍4万を率いて、蔡洲に布陣した。6月、韓晃が宣城を攻撃し、内史の桓彝は力戦したが、戦死した。平北将軍・雍州刺史の魏該が師において卒した。廬江太守の[[毛宝]]は合肥の賊を攻撃した。秋7月、祖約が石勒の将の石聰の工芸を受け軍が潰滅し、歴陽に逃亡した。石勒の将の[[石季龍]]が劉曜を蒲阪で攻撃した。8月、劉曜と石季龍が高候において戦い、石季龍が敗北し、劉曜は洛陽で石生を追い詰めて包囲した。9月、司徒の王導が白石に逃れた。陶侃は督護の[[楊謙]]を派遣し、石頭の蘇峻を攻撃させた。溫嶠と庾亮は白石に布陣し、竟陵太守の李陽は南偏の賊を防いだ。蘇峻は軽騎を率いて出陣したが、落馬して斬られ、軍勢は大潰走した。賊は蘇峻の弟の蘇逸を指導者にした。前交州刺史の[[張璉據]]が始興で反乱を起こし、進んで広州を攻撃したが、鎮南司馬の[[曾勰]]等が之を擊破した。冬10月、李雄の将の[[張龍]]が涪陵に侵攻し、太守の[[趙弼]]が賊において没した。12月、石勒が劉曜を洛陽で破り、捕虜とした。この年、石勒の将の石季龍は[[氐]]帥の蒲洪を隴山において攻撃し、降伏させた。
 
咸和4年春正月,成帝の身柄は石頭にあった。賊将の匡術は以苑城歸順,百官赴焉。侍中の鐘雅と右衛将軍の劉超は皇帝の脱出を謀り、賊に殺害された。冠軍将軍の趙胤はその将の[[甘苗]]を派遣し歴陽で祖約を攻撃し破り、祖約は石勒を頼って落ち延び、その将の牽騰は軍を率いて投降した。蘇峻の子の蘇碩が台城を攻撃し、太極東堂、秘閣に火をかけ建物は焼き尽くされた。城中は大いに餓え、米の値段は暴騰した。2月、大雨霖が振った。諸軍が石頭を攻撃した。李陽と蘇逸が柤浦において戦い、李陽の軍が敗れた。建威長史の[[滕含]]が精兵を率いて攻撃すると、蘇逸らは大敗した。滕含が成帝を奉じて溫嶠の舟に連れ帰ると,群臣らは泣いて罪を詫びた。弋陽王の司馬羕が罪を得て誅殺された。大赦が実行された。戦乱のため、宮闕は灰燼に帰し、建平園を宮とした。蘇逸ら万余人が延陵湖から呉興を目指していた。将軍の[[王允之]]は溧陽で蘇逸と戦い、捕虜とした。湘州と荊州を平定した。劉曜の太子の[[劉毗]]は大司馬の[[劉胤]]と百官を引き連れて上邽に走り、関中は大乱となった。3月、征西大将軍の陶侃を太尉にし、長沙郡公に封じた。車騎将軍の郗鑒を司空とし、南昌県公に封じた。平南将軍の温嶠を驃騎将軍・開府儀同三司とし、始安郡公に封じた。その他、各々の功績に応じて褒美が与えられた。右光禄大夫の陸曄を衛将軍・開府儀同三司とし、高密王の司馬紘に彭城王を兼任させた。護軍将軍の庾亮を平西将軍。都督揚州之宣城江西諸軍事。假節・領豫州刺史とし、蕪湖に出鎮させた。夏4月、驃騎将軍・始安公の温嶠が死去した。秋7月、有星が西北においてあった。会稽、呉興、宣城、丹陽で大水があった。成帝は詔を出し、賊の被害のあった郡県の租税を三年免じた。8月、劉曜の将の劉胤等が軍を率いて石生に侵攻し、於雍にまで至った。9月、石勒の将の石季龍が劉胤を撃退し、之を斬り、進んで上邽で虐殺を行い、劉氏の一族を滅ぼし、その党3000余人を生き埋めとした。冬10月、廬山が崩れた。12月、右将軍の郭默が平南将軍・江州刺史の劉胤を殺害し、太尉の陶侃が軍を率いて郭默を討伐した。この年、天が西北に裂けた。
 
咸和5年春正月、成帝は大赦を実行した。成帝は詔を出し、諸将を任子に除した。2月、尚書の[[陸玩]]を尚書左僕射に、[[孔愉]]を右僕射に任命した。夏5月、旱がおき、飢餓と疫びょうが流行した。太尉の陶侃が尋陽で郭默を捕虜とし、斬った。石勒の将の劉徵が南沙に侵攻し、都尉の許儒が殺害された。劉徴は海虞にまで進んだ。<!--6月、初稅田,畝三升。-->秋8月、石勒が皇帝を僭称し、その将の郭敬が襄陽に侵攻した。南中郎将の周撫が武昌に撤退し、中州の流人は悉く石勒に降伏した。郭敬は襄陽を攻撃し、樊城に駐屯した。9月、新宮が造営され、苑城の修復が始まった。樂成王の[[司馬欽]]を河間王に移し、彭城王の[[司馬紘]]の子の[[司馬浚]]を高密王に封じた。冬10月、成帝は司徒王導の第に行幸し、置酒の大会を催した。李雄の将の[[李壽]]が巴東・建平に侵攻し、監軍の[[毌丘奧]]、太守の[[楊謙]]は歸宜都に退いた。12月、張駿稱臣于石勒。
 
咸和6年春正月、劉徵が再び婁県に侵攻し、武進まで攻め取った。司空の郗鑒を都督呉国諸軍事に任命した。<!--戊午,以運漕不繼,發王公已下千余丁,各運米六斛。-->2月、幽州刺史・大[[単于]]の[[段遼]]を驃騎将軍に二寧した。3月、日蝕が起きた。成帝は詔を出し、賢良直言の士を求めた。夏4月、旱が起きた。6月、故の河間王の[[司馬顒]]の爵位を戻し、彭城王の[[司馬植]]の子の[[司馬融]]を楽成王に、章武王の[[司馬混]]の子の[[司馬珍]]を章武王に封じた。秋7月、李雄の将の[[李壽]]が陰平に侵攻し、武都の氐の指導者の[[楊難敵]]が降伏した。8月、左僕射の陸玩を尚書令に任命した。
 
咸和7年春正月、大赦が実行された。3月、西中郎将の趙胤、司徒中郎の匡術が石勒を馬頭塢に攻撃した。石勒の将の韓雍が南沙と海虞に侵攻した。夏4月、石勒の将の郭敬が襄陽を陥落させた。5月、大水が発生した。秋7月、成帝は詔を出した<!--諸養獸之屬,損費者多,一切除之。-->太尉の陶侃が平西参軍の[[陶斌]]と南中郎将の[[桓宣]]とを派遣し、石勒の将の郭敬を攻撃させ、之を破り樊城を占領した。竟陵太守の李陽が新野、襄陽を攻撃し、平定した。冬11月、太尉の陶侃が大将軍に任命された。成帝は詔を出し、賢良を求めた。12月、成帝は新宮に遷った。
 
咸和8年春正月、成帝は詔を出した<!--曰:「昔犬賊縱暴,宮室焚蕩,元惡雖翦,未暇營築。有司屢陳,朝會逼狹,遂作斯宮,子來之勞,不日而成。既獲臨禦,大饗群後,九賓充誕,百官象物。知君子勤禮,小人盡力矣。思蠲密綱,咸同斯惠,其赦五歲刑以下。」令諸郡舉力人能舉千五百斤以上者。-->。李雄の将の李壽が甯州を陥落させ、刺史の尹奉と建甯太守の[[霍彪]]は揃って降伏した。張駿が鎮西大将軍に任命された。石勒が誼を求めてきたが、成帝は之を燃やすよう命令した。夏4月、成帝は詔を出し、故の新蔡王の[[司馬弼]]の弟の[[司馬邈]]を新蔡王に封じた。処子の尋陽の[[翟湯]]、会稽の[[虞喜]]に賜り物を与えた。5月、<!--有星隕於肥鄉。麒麟、騶虞見於遼東。-->車騎将軍・遼東公の[[慕容廆]]が死去し、子の[[慕容皝]]が位を嗣いだ。6月、撫軍将軍の王舒が死去した。秋7月、石勒が死去し、子の[[石弘]]が跡を継いだ。その将の[[石聰]]が譙において降伏した。冬10月、石弘の将の[[石生]]が関中で挙兵し、秦州刺史を通じて降伏の使者を送ってきた。石弘の将の石季龍は[[石朗]]を洛陽で攻撃し、続いて石生にも攻撃をかけ、共に滅ぼした。12月、石生の元の部将の郭権が降伏の使者を送ってきた。
 
咸和9年春正月、<!--隕石於涼州二。-->郭権を鎮西将軍・雍州刺史に任命した。2月、鎮西大将軍の張駿を大将軍に昇進させた。3月、会稽で地震が起きた。夏4月、石弘の将の石季龍が[[石斌]]を派遣し郿で郭権を攻撃し、城を陥落させた。6月、李雄が死去し、その兄の子の[[李班]]が跡を継いだ。太尉・長沙公の陶侃が死去した。大旱があった。成帝は詔を出した。<!--太官撤膳;省刑,恤孤寡,貶費節用。-->平西将軍の庾亮を昇進させ、都督江、荊、豫、益、梁、雍六州諸軍事とした。秋8月、大雩があった。5月よりこの月まで雨が降らなかった。9月、散騎常侍・衛将軍・江陵公の陸曄が死去した。冬10月、李雄の子の[[李期]]が李班を殺して自立し、李班弟の[[李玝]]とその将の[[焦會]]、[[羅凱]]等が降伏してきた。11月、石季龍が石弘を殺害し、自立して天王を称した。12月、東海王の司馬沖を車騎将軍に、琅邪王の司馬嶽を驃騎将軍に任命した。蘭陵人の[[朱縱]]が石季龍の将の[[郭祥]]を斬り、彭城が降伏してきた。
 
[[咸康]]元年春正月、成帝は元服し、大赦を実行し改元した。<!--增文武位一等,大酺三日,賜鰥寡孤獨不能自存者米,人五斛。--><!--2月、帝親釋奠。揚州諸郡饑,遣使振給。-->3月、成帝は司徒府に行幸した。夏4月、石季龍が歴陽に侵攻した。司徒の王導が大司馬・假黃鉞・都督征討諸軍事に昇進し、防御にあたった。成帝は広莫門で閲兵を行い、諸将に分命した。將軍の[[劉仕]]に曆陽を救援させ、平西将軍の趙胤を慈湖に駐屯させ、龍驤将軍の[[路永]]を牛渚に、建武将軍の王允之を蕪湖に置いた。司空の郗鑒は広陵相の陳光に軍勢を率いさせ建康を守備させ、賊を襄陽に撤退させた。戒厳状態を解除した。石季龍の将の[[石遇]]が中廬に侵攻し、南中郎将の王國は退いて襄陽を保った。秋8月、長沙、武陵で大水があった。処士の翟湯、郭翻に贈り物が与えられた。冬10月乙、日蝕が起きた。この年、大旱がおり、会稽余姚の被害が大きく、米の値段は暴騰し、人はお互いに食らいあった。
 
咸康二年春正月、<!--彗星見於奎。-->呉国の内史の虞潭を衛将軍に任命した。2月<!--、算軍用稅米,空懸五十余萬石、-->尚書の[[謝褒]]が免官となった。皇后に杜氏を立てて、大赦を実行した。<!--增文武位一等。-->[[高句驪]]が使者を送り貢物を持参した。3月、旱がおきた。成帝は詔を出した。<!--詔太官減膳,免所旱郡縣繇役。-->大雩が起きた。夏4月、皇后が太廟において見た。雨雹が起きた。秋7月、揚州会稽で飢饉が起き、倉を開いて施しをした。冬10月、広州刺史の[[鄧岳]]は督護の[[王隨]]を派遣し[[夜郎]]を攻撃した。新昌太守の[[陶協]]が[[興古]]を攻撃した。成帝は詔を出した<!--曰:「曆觀先代,莫不褒崇明祀,賓禮三恪。故杞宋啟土,光于周典;宗姬侯衛,垂美漢冊。自頃喪亂,庶邦殄悴,周漢之後,絕而莫繼。其祥求衛公、山陽公近屬,有履行修明,可以繼承其祀者,依舊典施行。」新作硃雀浮桁。-->11月、建威将軍の司馬の勳安が漢中で軍を集めたが、李期の将の李壽のために敗れた。
 
咸康3年春正月、太学を建てた。夏6月、旱が起きた。冬11月、慕容皝が自立して燕王となった。
 
咸康4年春2月、石季龍が7万の軍勢を率いて、遼西で[[段遼]]を攻撃し、段遼は平崗に逃亡した。夏4月、李壽が李期を殺害し、帝位を僭称して国号を漢とした。石季龍は慕容皝に敗北した。成帝は慕容皝を征北大将軍に昇進させた。5月、司徒の王導を[[太傅]]・都督中外諸軍事とし、司空の郗鑒を太尉に、征西将軍の庾亮を司空に任命した。6月、司徒を[[丞相]]に改称し、太傅の王導を丞相とした。秋8月、甯州を分割して安州を設置した。
 
咸康5年春正月、大赦を実行した。3月、広州刺史の鄧岳が蜀を攻撃し、建甯人の孟彥と李壽の将の霍彪が降伏さいた。夏4月、征西将軍の庾亮は参軍の[[趙松]]を派遣し巴郡、江陽を攻撃させ、石季龍の将の李閎、黃桓等を捕虜とした。秋7月、使持節・侍中・丞相・領揚州刺史・始興公の王導が死去した。護軍将軍の[[何充]]を録尚書事とした。8月、丞相を司徒の名称に戻した。太尉・南昌公の郗鑒が死去した。9月、石季龍の将の夔安、李農が沔南を陥落させ、張貉が朱城を陥落させ、江夏、義陽まで侵略し、征虜将軍の毛宝、西陽太守の樊俊、義陽太守の鄭進が揃って死んだ。夔安等は進んで石城を包囲した。竟陵太守の李陽が防戦してこれを破り、首級5千余りを得た。夔安は退き、遂に漢東まで侵略し、7千余の家を幽州と冀州に移住させた。冬12月、驃騎将軍・琅邪王の[[司馬岳]]を司徒に任命した。李壽の将の[[李奕]]が巴東に侵攻し、守将の労揚は戦って敗れ死亡した。
 
咸康6年春正月、使持節・都督江豫益梁雍交廣七州諸軍事・司空・都亭侯の庾亮が死去した。左光録大夫の陸玩が司空となった。2月、慕容皝と石季龍の将の[[石成]]が遼西で戦った<!--獻捷于京師。--><!--庚辰,有星孛於太微。-->3月、大赦が実行された。車騎将軍・東海王の司馬沖が驃騎将軍に任命された。李壽が丹川を陥落させ、守将の孟彥、劉斉、李秋が皆死んだ。秋7月、中興の故事により、東堂において朔望聴政を実施した。冬10月、[[林邑]]が象を謙譲した。<!--11月、複琅邪,比漢豐沛。-->
 
咸康7年春2月、日蝕が起きた。慕容皝が遣使し燕王の章璽を求めてきたため、之を許した。3月、杜皇后が死去した。夏4月、恭皇后を興平陵に葬った。[[土断]]を実行した<!--實編戶,王公已下皆正土斷白籍。-->。秋8月、驃騎将軍・東海王の司馬沖が死去した。9月、太僕の官を取りやめた。冬12月、司空・興平伯の陸玩が死去した。楽府雜伎を除いた。安州を取りやめた。
 
咸康8年春正月、日蝕が起きた。大赦が実行された。3月、[[武悼楊皇后]]を[[司馬炎|武帝]]廟に配した。夏6月、帝は体調を崩し、琅邪王の司馬嶽を後継に指名し、武陵王の司馬晞、會稽王の司馬昱、中書監の庾冰、中書令の何充、尚書令の[[諸葛恢]]に後事を託した。まもなく成帝は西堂において死去した。22歳であった。興平陵に葬られ、廟号は顕宗とされた。<!--不豫,詔曰:「朕以眇年,獲嗣洪緒,托于王公之上,于茲十有八年。未能闡融政道。翦除逋昆,夙夜戰兢,匪遑寧處。今遘疾殆不興,是用震悼於厥心。千齡眇眇,未堪艱難。司徒、琅邪王嶽,親則母弟,體則仁長,君人之風,允塞時望。肆爾王公卿士,其輔之!以祗奉祖宗明祀,協和內外,允執其中。嗚呼,敬之哉!無墜祖宗之顯命。」壬辰,引武陵王晞、會稽王昱、中書監庾冰、中書令何充、尚書令諸葛恢並受顧命。癸巳,帝崩於西堂,時年二十二,葬興平陵,廟號顯宗。-->
<!--
帝少而聰敏,有成人之量。南頓王宗之誅也,帝不之知,及蘇峻平,問庾亮曰:「常日白頭公何在?」亮對以謀反伏誅,帝泣謂亮曰:「舅言人作賊,便殺之,人言舅作賊,複若何?」亮懼,變色。庾懌嘗送酒于江州刺史王允之,允之與犬,犬斃,懼而表之。帝怒曰:「大舅已亂天下,小舅複欲爾邪?」懌聞,飲藥而死。然少為舅氏所制,不親庶政。及長,頗留心萬機,務在簡約,常欲於後園作射堂,計用四十金,以勞費乃止。雄武之度,雖有愧于前王;恭儉之德,足追蹤於住烈矣。
-->
 
==宗室==
===子===
*(孝宗)・[[帝 (東晋)|司馬{{Lang|zh|聃}}]](千齢彭子
 
*海西公・[[廃帝 (東晋)|司馬奕]](延齢)
== 参考資料 ==
*『晋書』([[:zh:s:晉書/卷007]]、[http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/8783/kanseki/text/shinjo/07-2.html|日本語訳の一例])
 
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== 参考資料 ==
*『晋書』
 
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