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日本の武士、軍人
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高島 茂徳(たかしま しげのり、弘化3年11月~弘化4年2月(1847年1月~3月) - 1876年明治9年)10月24日)は、江戸時代後期(幕末)の駿府藩士。明治時代前期の官僚、陸軍軍人である。最終階級は陸軍中佐。通称は四郎兵衛・四郎平。

経歴

幕末

熊本県熊本市花岡山官軍墓地にある高島茂徳の墓より、弘化3年11月~弘化4年2月(1847年1月~3月)に、駿河国沼津で誕生したという。

幕臣・福田重固の弟。1866年(慶応2年)、砲術家高島秋帆の養嗣子となった。沼津兵学校では英語を担当していたというが、詳しいことは不明である。

明治

大砲差図役頭取として明治維新をむかえた後、明治3年1870年)に新政府に出仕し、創設初期の陸軍砲兵科に中佐となり、その後陸軍卿・山県有朋にその奇才を見込まれて熊本鎮台]]司令部の参謀長に抜擢された。

しかし、明治9年(1876年10月24日神風連の乱において、自宅で神風連・石原運四郎らの襲撃にあった。 不意の襲撃に驚き、雨戸をおしあけて庭に飛び出したが、屋敷を囲んでいた一隊に「そら出た」と追いかけられ、泉水に落ちたところを水野貞雄に首を刎ねられたという。享年30

年譜

参考文献

  • 鈴木 喬/監修『神風連資料館収蔵品図録』(神風連資料館、1987年)  ほか