「ヤナ・ノボトナ」の版間の差分

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[[1987年]]にプロ入り。[[1991年]]の[[1991年全豪オープン|全豪オープン]]で女子シングルス準優勝。この時の決勝戦では当時17歳の新星[[モニカ・セレシュ]]に 7-5, 3-6, 1-6 で逆転負けしている。それから[[ウィンブルドン選手権]]で、[[1993年]]と[[1997年]]の2度準優勝に甘んじた。とりわけ[[1993年ウィンブルドン選手権|1993年]]の決勝戦では、最終第3セットで[[シュテフィ・グラフ]]を 4-1 まで追い詰めながらも、ここから優勝を意識し始めてプレーが硬くなり、意外なミスを連発してグラフに5ゲームを連取されて大逆転負けを喫した試合が長い間語り草になっていた。(グラフの最終スコア:7-6, 1-6, 6-4)「勝負所での精神的な弱さが課題」と言われ続けたノボトナは、[[1997年ウィンブルドン選手権|1997年]]の決勝では当時16歳9ヶ月の[[マルチナ・ヒンギス]]に 6-2, 3-6, 3-6 で敗れている。しかし[[1998年ウィンブルドン選手権|1998年]]に“3度目の正直”で宿願を果たし、[[フランス]]の[[ナタリー・トージア]]に 6-4, 7-6 のストレート勝ちを収めてウィンブルドン優勝者になった。
 
ノボトナはダブルスの名手としても定評があり知られ、様々な選手たちとペアを組んで、すべての4大大会でダブルスのタイトルを獲得した。[[1989年]]から[[1990年]]にかけては同じ[[チェコスロバキア]]の[[ヘレナ・スコバ]]とペアを組み、[[1990年]]のシーズンは4大大会女子ダブルスに3連勝しながらも、[[1990年全米オープン (テニス)|全米オープン]]女子ダブルス決勝で[[ジジ・フェルナンデス]]と[[マルチナ・ナブラチロワ]]の組に敗れ、同一ペアによる女子ダブルスの[[グランドスラム (テニス)|年間グランドスラム]]を逃したことがある。[[1994年]]から[[1995年]]にかけては、[[スペイン]]の[[アランチャ・サンチェス・ビカリオ]]がダブルスのパートナーだった。[[1998年]]には[[マルチナ・ヒンギス]]とペアを組み、[[1998年全仏オープン|全仏オープン]]から[[1998年全米オープン (テニス)|全米オープン]]まで4大大会女子ダブルス3連勝を達成した。(ヒンギスはこの年、[[1998年全豪オープン|全豪オープン]]だけはパートナーが[[ミリヤナ・ルチッチ]]だった。ヒンギスは[[1998年]]度の「ダブルス年間グランドスラム」が成立する。)
 
ノボトナは[[オリンピックテニス競技]]にも、[[ソウルオリンピックにおけるテニス競技|1988年ソウル五輪]]・[[バルセロナオリンピックにおけるテニス競技|1992年バルセロナ五輪]]・[[アトランタオリンピックにおけるテニス競技|1996年アトランタ五輪]]の3度出場した。ノボトナと[[ヘレナ・スコバ]]は、ソウル五輪とアトランタ五輪で2個の女子ダブルス銀メダルを獲得している。1988年ソウル五輪は、オリンピックにプロテニス選手の出場を認めた歴史的な大会である。ノボトナとスコバは、女子ダブルス決勝で[[アメリカ合衆国|アメリカ]]代表の[[ジーナ・ガリソン]]&[[パム・シュライバー]]組に 6-4, 2-6, 8-10 で敗れ、テニス女子ダブルスの「復活金メダル」を逃した。[[1988年]]と[[1992年]]、彼女は「[[チェコスロバキア]]」のオリンピック代表選手であったが、[[1993年]]にチェコスロバキアが連邦解体して「[[チェコ]]共和国」と「[[スロバキア]]共和国」に分かれる。チェコスロバキア解体後、ノボトナはチェコの代表選手として[[1996年]]のアトランタ五輪に出場し、女子ダブルス銀メダルと女子シングルスの銅メダルを獲得した。
 
ノボトナは[[1999年]]の[[1999年全米オープン (テニス)|全米オープン]]3回戦で[[アンケ・フーバー]]に敗れた後、この年限りでの現役引退を表明した。同世代に当たる[[シュテフィ・グラフ]]も少し前の8月13日に現役引退を表明したので、女子テニス界は2人のベテラン選手のトップを相次いで失うことになった。[[2005年]]7月9日に[[国際テニス殿堂]]入りを果たしている。
 
== 4大大会ダブルス優勝 ==
* [[全豪オープン]] 女子ダブルス:2勝(1990年・1995年)/混合ダブルス:2勝(1988年・1989年)