「山吉能盛」の版間の差分

系譜に関しては諸系図での異同も多く定説がないためコメントアウトしました。また山吉氏は守護代の被官ですが、飯沼氏は被官ではなく、一部不適切な部分を削除。
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(系譜に関しては諸系図での異同も多く定説がないためコメントアウトしました。また山吉氏は守護代の被官ですが、飯沼氏は被官ではなく、一部不適切な部分を削除。)
<!--{{基礎情報 武士
| 氏名 = 山吉能盛
| 時代 = [[室町時代]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]
| 子 = [[山吉政久|政久]]
| 特記事項 =
}}-->
 
'''山吉 能盛'''(やまよし よしもり)は[[室町時代]]の[[戦国武将]]、[[武士]]、[[領主]]。
 
== 概要 ==
[[越後]][[三条城]]の領主で、[[蒲原郡]]の[[郡司]]。{{要出典範囲|date=2011年4月|年諱は主君・[[上杉房能]]から一時拝領したと考えられる。}}
 
房能は大胆に[[守護]]権力の強大化を進めたが、それが国人達に反感を持たせてしまい、[[長尾為景]]の謀反を許すことになった。為景は[[上条上杉家]]の[[上杉定実]]<!--(生母は能盛の[[伯母]])-->を担ぎ上げて挙兵、房能を自刃に追い込んだ。この新守護擁立の動きに能盛も加担した。しかし、その後は[[揚北衆]]の反攻、そして[[上杉顕定]]の越後侵攻などもあったが、いづれも能盛は為景方に立ち、[[本成寺]]の僧兵らと共に三条城を死守した。
 
越後が平穏に帰した後は、定実を傀儡とした為景の下、[[守護代]]被官的立場の飯沼氏(のちに直江氏がとってかわる)と山吉氏が、しばらく国政を実行していくことになった。
 
{{DEFAULTSORT:やまよし よしもり}}
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