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Kangoshiyouichi (会話 | 投稿記録) 『晋書』の帝紀を参照し、下書きを作成(後半が未完成・・・)。穆帝 (東晋)よりの転記含む。 タグ: サイズの大幅な増減 |
Kangoshiyouichi (会話 | 投稿記録) 『晋書』の帝紀を参照し、下書きを作成。哀帝 (東晋)よりの転記を含む。 タグ: サイズの大幅な増減 |
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{{基礎情報 中国君主
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|呼称 =皇帝
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|王朝 =東晋
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== 概要 ==
穆帝の死で即位したが、その治世は穆帝時代に[[洛陽]]奪還などの功績で実力者となっていた[[桓温]]が実権を握っており、哀帝自身はほとんど傀儡同然であった。そのためか、皇帝は不老長寿を求める[[長生術]]に没頭し、政務を顧みなかった。ついには薬の乱用の結果、365年に中毒死したという。
== 生涯 ==
諱は司馬
[[咸康]]8年、琅邪王に封じられた。
[[永和]]元年、散騎常侍に任じられれ、永和12年に中軍将軍を加えられた。升平3年には[[驃騎将軍]]に除せられた。
升平5年5月、穆帝が死去した。皇太后は令を出し、哀帝を後継に指名した。<!--曰:「帝奄不救疾,胤嗣未建。琅邪王丕,中興正統,明德懋親。昔在咸康,屬當儲貳。以年在幼沖,未堪國難,故顯宗高讓。今義望情地,莫與為比,其以王奉大統。」於是百官備法駕,迎於琅邪第。-->哀帝は即位し、大赦を実行した。詔を出し、東海王の司馬奕を琅邪に封じた。<!--曰:「朕獲承明命,入纂大統。顧惟先王宗廟,蒸嘗無主,太妃喪庭,廓然靡寄,悲痛感摧,五內抽割。宗國之尊,情禮兼隆,胤嗣之重,義無與二。東海王奕,戚屬親近,宜奉本統,其以奕為琅邪王。」-->
秋7月、穆帝を永平陵に葬った。[[慕容恪]]が野王を陥落させ、守将の[[呂護]]は滎陽に退いた。
8月己、天が裂け、廣數丈となり、有聲如雷が発生した。
9月、王氏を皇后とした。穆帝の皇后の何氏は永安宮に移った。呂護が反乱を起こし、[[莫容]]に寝返った。
冬10月、安北将軍の[[范汪]]が罪を得て庶人となった。
11月、哀帝は詔を出した<!--曰:「顯宗成皇帝顧命,以時事多艱,弘高世之風,樹德博重,以隆社稷。而國故不巳,康穆早世,胤祚不融。朕以寡德,複承先緒,感惟永慕,悲育兼摧。夫昭穆之義,固宜本之天屬。繼體承基,古今常道。宜上嗣顯宗,以修本統。」-->
12月、涼州刺史の[[張玄靚]]が大都督隴右諸軍事・護羌校尉・西平公に昇進した。
[[隆和]]元年春正月、大赦・改元が実行された。<!--甲寅,減田稅,畝收二升。-->この月。慕容の将の呂護と[[傅末波]]が小壘を陥落させ、洛陽に迫った。
2月、輔国將軍。呉国内史の[[庾希]]を北中郎将・徐兗二州刺史に任命し、下邳に出鎮させ、前鋒監軍・龍驤将軍の[[袁真]]を西中郎将・監護豫司並冀四州諸軍事・豫州刺史に任命し、汝南に出鎮させ、双方に仮節を与えた。生母の周氏を皇太妃に追尊した。
3月、日蝕が起きた。
夏4月、旱があった。哀帝は詔を出した<!--出輕系,振困乏-->。しばらくして梁州で地震が起き、浩釁山が崩壊した。呂護が再び洛陽に攻め寄せた。その後、輔国将軍・河南太守の[[戴施]]が宛に逃亡した。
5月、北中郎将の庾希と竟陵太守の[[鄧遐]]に水軍で洛陽を救援させようとした。
秋7月、呂護等は退却して小平津を守備した。琅邪王の司馬奕を侍中・驃騎大将軍に昇進させ、開府の権限を与えた。鄧遐は新城まで進み駐屯した。庾希の部将の[[何謙]]は慕容の将の[[劉則]]と檀丘で戦い、敵を撃破した。
8月、西中郎将の袁真が汝南まで進み、米五万石を洛陽に輸送した。
冬10月、米を貧しい者に施した<!--賜貧乏者米,人五斛-->。章武王の[[司馬珍]]が死去した。
12月、日蝕が起きた。哀帝は詔を出した<!--曰:「戎旅路次,未得輕簡賦役。玄象失度,亢旱為患,豈政事未洽,將有板築、渭濱之士邪!其搜揚隱滯,蠲除苛碎,詳議法令,鹹從損耍。」-->庾希は下邳より退いて山陽を鎮守し、袁真は汝南より退いて寿陽を鎮守した。
[[興甯]]元年春2月、大赦・改元が実行された。
3月、皇太妃が琅邪第で死去した。哀帝は喪を発し、司徒・会稽王の司馬昱に內外の政務のすべてを委ねた。
夏4月、慕容が滎陽に侵攻し、太守の劉遠は魯陽に逃亡した。しばらくして、揚州で地震が起き、湖瀆が溢れた。
5月、征西大将軍の桓温を侍中・大司馬・都督中外諸軍事・録尚書事を加え、仮の黃鉞を与えた。西中郎将の袁真を再び都督司、冀、並三州諸軍事に任命し、北中郎将の瘦希を都督青州諸軍事に任命した。まもなく、慕容が密城を陥落させ、滎陽太守の劉遠は江陵まで逃亡した。
秋7月、[[張天錫]]が涼州刺史・西平公の[[張玄靚]]を殺害し、大将軍・護羌校尉・涼州牧・西平公を自称した。章皇太妃を葬った。
<!--8月、有星孛於角亢,入天市。-->
9月、大司馬の桓温が軍勢を率いて北伐した。しばらくして、皇子が生れ、大赦が実行された。
冬10月、陳留王の世子の司馬恢を王とした。
11月、[[姚襄]]の故将の[[張駿]]が江州督護[[趙毗]]を殺害し、武昌に放火し、府藏を略奪して反乱を起こした。江州刺史の[[桓沖]]が討伐に向って斬った。この年、慕容の将の[[慕容塵]]が陳留太守の[[袁披]]と長平で戦った。汝南太守の[[朱斌承]]が許昌に虚襲をかけて勝利した。
興甯2年春2月、江陵で地震が起きた。慕容の背将の[[慕容評]]が許昌を襲撃した。潁川太守の[[李福]]が死去した。慕容評は汝南まで襲撃し、太守の朱斌は壽陽まで逃亡した。慕容評はさらに進んで陳郡を包囲したが、太守の朱輔は城を固守した。桓温は江夏相の[[劉岵]]を援軍として派遣し敵を擊退した。左軍将軍が遊擊将軍に改められ、右軍、前軍、後軍将軍と五校三将官が廃止された。哀帝は藉田を耕した。
3月、[[土断法|庚戌の土断]]が実施された<!--大閱戶人,嚴法禁,稱為庚戌制-->。まもなく、哀帝は体調を崩した。元々哀帝は黃老を好み、薬に頼った生活をしていたため、かえって中毒になったのである。<!--斷谷,餌長生藥,服食過多,遂中毒,不識萬機,-->崇徳太后が再び臨朝することになった。
夏4月、慕容は其将の[[李洪]]を派遣し許昌に侵攻し、晋軍は懸瓠で敗れ、朱斌は淮南に逃れ、朱輔は彭城に退却した。桓温は西中郎将の袁真と江夏相の劉岵等を遣わして鑿陽儀道の通運を確保させ、自らは水軍を率いて合肥に赴いた。慕容塵は再び許昌に駐屯した。
5月、<!--遷陳人于陸以避之。-->揚州刺史の[[王述]]を尚書令・衛将軍とし、桓温を揚州牧・錄尚書事とした。まもなく、桓温に入相の要請が来たが、桓恩は従わなかった。
秋7月、再び桓温に入朝の要請があった。8月、桓恩は赭圻まで到達し、居城とした。苻堅の別働隊が河南に侵攻し、慕容は洛陽に侵攻した。
9月、冠軍将軍の[[陳祐]]は長史の[[沈勁]]を洛陽の守備に留めて、自身は軍勢を連れて新城まで撤退した。
興甯3年春正月、皇后の王氏が死去した。
2月、右将軍の[[桓豁]]を監荊州揚州之義城雍州之京兆諸軍事・領南蛮校尉・荊州刺史とし、[[桓沖]]を監江州荊州之江夏隨郡豫州之汝南西陽新蔡潁川六郡諸軍事・南中郎将・江州刺史・領南蛮校尉とし、双方に仮節を与えた。まもなく、哀帝は西堂において死去した。25歳であった。安平陵に葬られた。
== 参考資料 ==
*『晋書』
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