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『晋書』の帝紀を参照し、下書きを作成(後半が未完成・・・)。穆帝 (東晋)よりの転記含む。
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『晋書』の帝紀を参照し、下書きを作成。哀帝 (東晋)よりの転記を含む。
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1行目:
{{基礎情報 中国君主
|名 =帝 司馬{{lang|zh|聃}}
|代数 =56
|呼称 =皇帝
|画像 =
|説明 =
|王朝 =東晋
|在位期間 =[[344361年]] - [[361365年]]
|都城 =
|諱 =司馬
|字 =彭子千齢
|諡号 =皇帝
|廟号 =孝宗
|生年 =[[343341年]]
|没年 =[[361365年]]
|父 =[[帝 (東晋)|帝]]
|母 ={{lang|zh|褚}}后
|皇后 =
|陵墓 =平陵
|年号 =[[永和 (東晋)|永和]]([[345362年]] - [[356363年]])</br>[[升平興寧]]([[357363年]] - [[361365年]])
|注釈 =
}}
'''帝'''(ぼくあいてい)は[[東晋]]の第56代[[皇帝]]。第5代皇帝・[[穆帝 (東晋)|穆帝]]の従兄に当たる
 
== 概要 ==
穆帝の死で即位したが、その治世は穆帝時代に[[洛陽]]奪還などの功績で実力者となっていた[[桓温]]が実権を握っており、哀帝自身はほとんど傀儡同然であった。そのためか、皇帝は不老長寿を求める[[長生術]]に没頭し、政務を顧みなかった。ついには薬の乱用の結果、365年に中毒死したという。
344年、父・康帝が死去したため、わずか2歳で即位することとなる。このため、母親の{{Lang|zh|褚}}太后や重臣が政務を担ったが、やがて実権は[[荊州]]に勢力を持つ軍閥の[[桓温]]に牛耳られることとなった。その桓温は、穆帝の時代に[[四川省|四川]]地方に建国されていた[[成漢]]を滅ぼし、[[356年]]には一時的にではあるが[[洛陽]]を奪回するなど、軍事面において大きな戦果を挙げている。
 
361年、数え年19歳の若さで亡くなった。
 
== 生涯 ==
諱は司馬、字は彭子千齡帝の子。
 
[[建元]]2年9月、皇太子となる。まもなく、康帝が死去し、皇帝に即位した。このとき2歲であった。大赦を実行し、皇后を皇太后とした。皇太后が臨朝した。冬10月、康帝を崇平陵に葬った。11月、[[車騎将軍]]の庾冰が死去した。
 
[[永和]]元年春正月、皇太后太極殿で白紗帷を設置し、幼帝を抱いて臨席した。改元があった。鎮軍将軍・武陵王の[[司馬晞]]を鎮軍大将軍・開府儀同三司に昇進させ、鎮軍将軍の[[顧衆]]を尚書右僕射に任命した。夏4月、詔勅を出し、会稽王の[[司馬昱]]を録尚書六条事とした。5月、大雩が起きた。尚書令・金紫光録大夫・建安伯の[[諸葛恢]]が死去した。6月、地震が起きた。秋7月、持節・都尉江荊司梁雍益甯七州諸軍事・江州刺史・征西将軍・都亭侯の[[庾翼]]が死去した。庾翼の部將の[[于瓚]]、[[戴羲]]等が冠軍将軍の[[曹據]]を殺害し反乱を起こしたため、安西司馬の[[朱燾]]が討伐に赴き平定した。8月、豫州刺史の[[路永]]が叛いて[[石季龍]]の下に奔った。輔國将軍・徐州刺史の[[桓温]]が安西将軍・持節・都督荊司雍益梁甯六州諸軍事・領護南蛮校尉・荊州刺史に任命された。石季龍の将の路永が寿春に駐屯した。9月、皇太后が詔を出した<!--曰:「今百姓勞弊,其共思詳所以振恤之宜。及歲常調非軍國要急者,並宜停之。」-->。冬12月、[[李勢]]の将の[[爨頠]]が出奔した。涼州牧の[[張駿]]が[[焉耆]]を攻めて降伏させた。
 
永和2年春正月、大赦を実行した。使持節・侍中・都督揚州諸軍事・揚州刺史・驃騎将軍・録尚書事・都鄉侯の[[何充]]が死去した。2月、左光禄大夫の[[葵謨]]を領司徒・録尚書六条事・撫軍大将軍・会稽王の司馬昱と共に輔政させた。3月、前司徒左長史の[[殷浩]]が建武将軍・揚州刺史に任命した。夏4月、日蝕が起きた。5月、涼州牧の張駿が死去し、子の[[張重華]]が跡を継いだ。6月、石季龍の将の[[王擢]]が武街を襲撃し、張重華の護軍の[[胡宣]]を執した。又、麻秋、孫伏に金城を攻撃させ、太守の張沖を降参させた。張重華の将の[[謝艾]]が麻秋を攻撃し、これを破った。秋7月、兗州刺史の褚裒を征北大将軍・開府儀同三司に任命した。冬10月、地震が起きた。11月、安西将軍の桓温が征虜将軍の[[周撫]]、輔國将軍・譙王の[[司馬無忌]]、建武将軍の[[袁喬]]を引き連れて蜀征伐を実行した<!--,拜表輒行。--><!--12月、枉矢自東南流於西北,其長竟天。-->
 
永和3年春正月、桓温が成都を攻略し、しばらくして李勢が降参し、益州が平定された。[[林邑]]の範文が日南を攻め落とし、太守の夏侯覽が殺害された<!-,以屍祭天-->。夏4月、地震が起きた。蜀人の[[鄧定]]、[[隗文]]が挙兵して反乱を起こしたが、桓温に擊破された。桓温は益州刺史の周撫を彭模で鎮守させた。しばらくして、鄧定と隗文は再び成都に侵攻しようとし、征虜将軍の[[楊謙]]は涪城を放棄して、德陽まで退いた。5月、慕容皝を安北将軍に昇進させた。石季龍はその将の石甯に命じて再び麻秋等涼州の勢力を討伐させ、石甯の軍は曲柳にまで達した。張重華は将軍の[[牛旋]]に命じて防がせたが、牛旋は枹罕に退いて守った。6月、大赦が実行した。秋7月、範文は再び日南を陥落させ、督護の劉雄を殺害した。隗文は範賁を皇帝に擁立した。8月、張重華の将の謝艾が軍を進めて麻秋を攻撃したが、大敗した。9月、地震が起きた。冬10月、假の涼州刺史の張重華を大都督隴右関中諸軍事・護羌校尉・大将軍に、武都氐王の[[楊初]]を征南将軍・雍州刺史・平羌校尉・仇池公に任命し、共に仮節を与えた。12月、振威護軍の[[粛敬文]]が征虜将軍の楊謙を殺害し、涪城を攻めて陥落させた。粛敬文は巴西も奪取し、漢中に進駐した。
 
永和4年夏4月、範文が九徳に侵攻し、あちこちを殺害して回った。5月、大水があった。秋8月、安西将軍の桓温を征西大将軍・開府儀同三司に任命し、臨賀郡公に封じた。また、西中郎将の[[謝尚]]を安西将軍に任命した。9月、慕容皝が死去し、子の慕容雋が跡を継いだ。冬10月、地震が起きた。石季龍は其将の[[苻健]]に竟陵を侵攻させた。12月、豫章人の黃韜が自ら孝神皇帝と号し、数千を集めて臨川を攻撃した。太守の[[庾條]]が之を討伐し平定した。
 
永和5年春正月、大赦を実行した。しばらくして地震が起きた。石季龍が鄴において皇帝を自称した。
 
2月、征北大將軍の[[褚裒]]が部将の[[王龕]]に北伐を実行させ、石季龍の将の[[支重]]捕虜とした。
 
夏4月、益州刺史の周撫、龍驤将軍の朱燾が範賁を攻撃し、捕虜とし、益州を平定した。周撫は建城公に封じられた。慕容雋を仮の大将軍・幽平二州牧・大単于・燕王とした。征西大将軍桓温は督軍の滕畯を送り範文を討たせたが、敗北した。石季龍が死去し、子の[[石世]]が跡を継いだ。
 
5月、[[石遵]]が石世を廃立して自立した。
 
6月、桓温が安陸に駐屯し、諸将を遣わして河北を征伐させた。石遵は揚州刺史の[[王浹]]を壽陽で降参させた。
 
秋7月、褚裒は進撃し彭城まで至ったところで、その部将の王龕を送り、[[李邁]]と共に石遵の将の[[李農]]と代陂で戦ったが、晋軍が敗北し、王龕は李農の捕虜となり、李邁は戦死した。
 
8月、褚裒は広陵に撤退し、西中郎将の[[陳逵]]は寿春に火をかけて遁走した。梁州刺史の[[司馬勳]]が石遵を長城戍で、仇池公の[[楊初]]が西城を襲撃し、皆勝利した。
 
冬10月、石遵の将の[[石遇]]が宛を攻撃し陥落させ、南陽太守の[[郭啟]]を捕虜とした。司馬勳は懸鉤まで進撃したが、石季龍の故将の麻秋に距まれて、梁州に帰還した。
 
11月、[[石鑒]]が石遵を殺害し自立した。
 
12月、使持節・都督徐兗二州諸軍事・徐州刺史・征北大将軍・開府儀同三司・都鄉侯の褚裒が死去した。建武将軍・呉国内史の[[荀羨]]が使持節・監徐兗二州諸軍事・北中郎将・徐州刺史に任命された。
 
永和6年春正月、穆帝が臨朝したが、褚裒の喪のため、音楽は鳴らさなかった。
 
閏月。[[冉閔]]が石鑒を殺害し、天王を自称し、国号を[[魏]]とした。石鑒の弟の[[石祗]]は襄国において帝号を称した。<!--丁醜,彗星見於亢。-->中軍将軍の[[殷浩]]に督揚豫徐兗青五州諸軍事を加官し、仮節を与えた。[[テイ|氐]]の指導者の[[苻洪]]が使者を送り降伏を申し出てきたので、氐王に任命し、広川郡公に封じた。また、符洪の子の[[符健]]を仮の節・監河北諸軍事・右将軍に任命し、襄国県公に封じた。
 
3月、石季龍の故将の麻秋が苻洪を枋頭で毒殺した。
 
夏5月、大水が発生した。廬江太守の[[袁真]]が合肥を攻撃し、勝利した。
 
6月、石祗が弟の石琨を遣わして冉閔の将の[[王泰]]と邯鄲で戦ったが、石琨の軍は敗北した。
 
秋8月、輔國将軍・譙王の[[司馬無忌]]が死去した。苻健は軍勢を引き連れて入関した。
 
冬11月、冉閔が襄國を包囲した。
 
12月、司徒の[[蔡謨]]を免職とし、庶人に落した。この年、大疫が発生した。
 
永和7年春正月、日蝕がおきた。鮮卑の[[段龕]]が青州で降伏してきた。苻健が王を自称し、國号を[[前秦|秦]]とした。
 
2月、段龕を鎮北将軍に任命し、斉公に封じた。石祗は冉閔に襄國で大敗した。
 
夏4月、梁州刺史の司馬勳が步兵・騎兵を3万人率いて、自ら漢中から秦川に入り、苻健と五丈原で戦ったが、晋軍が敗北した。尚書令の[[顧和]]に開府儀同三司が加えられた。劉顯が石祗を殺害した。
 
5月、石祗の任命した兗州刺史の[[劉啟]]が鄄城で降参してきた。
 
秋7月、尚書令・左光禄大夫・開府儀同三司の顧和が死去した。濤水が溢れて石頭に流れ込み、溺死者が数百人出た。
 
8月、冉閔の任命した豫州牧の[[張遇]]が許昌で降伏してきたため、鎮西将軍に任命した。
 
9月、峻陽、太陽の二陵が崩壊した。穆帝は喪服を着て太極殿で三日喪に服し、兼太常の[[趙拔]]に陵墓を修復させた。
 
冬10月、雷雨と震電が発生した。
 
11月、石祗の将の[[姚弋仲]]、冉閔の将の[[魏脫]]が使者を立てて降伏を申し出てきたため、姚弋仲を車騎将軍・大単于に任命し、高陵郡公に封じた。また、姚弋仲の子の[[姚襄]]を平北将軍・都督並州諸軍事・並州刺史に任命し、平鄉県公に封じた。魏脫を安北将軍・監冀州諸軍事・冀州刺史に任命した。
 
12月、征西大将軍の桓温が北伐の軍を率いて武昌にまで帰還した。石季龍の故将の[[周成]]が廩丘に、[[高昌]]が野王に、[[楽立]]が許昌に、[[李曆]]が衛国にいたが、相い次いで降参してきた。
 
永和8年春正月、日蝕が起きた。劉顯が襄国で皇帝を自称したが、冉閔に擊破され殺害された。苻健が長安で皇帝を自称した。
 
2月、峻平、崇陽の二陵が崩壊した。穆帝は三日の喪に服し、殿中都尉の[[王惠]]を洛陽に遣わし、五陵の守備をさせた。鎮西将軍の張遇が許昌で叛き、それに呼応した上官恩が洛陽を占拠した。楽弘が督護の[[戴施]]を倉垣で攻撃した。
 
3月、北中郎の荀羨が淮陰に出鎮した。苻健の別働隊が順陽に侵攻したが、太守の薛珍に擊破された。
 
夏4月、冉閔が慕容雋に滅ぼされた。慕容雋は中山で皇帝を自称し、国号を[[後燕|燕]]とした。安西将軍の謝尚は姚襄を連れて張遇と許昌の誡橋で戦ったが、晋軍が敗北した。苻健がその弟の[[符雄]]に張遇を襲撃させ、捕虜とした。
 
秋7月、大雩があった。石季龍の故将の[[王擢]]が使者を送り降伏してきたため、征西將軍・秦州刺史に任命した。鎮軍大将軍・武陵王の司馬晞を太宰、撫軍大将軍・会稽王の司馬昱を司徒に,征西大将軍の桓温を太尉にした。
 
8月、平西将軍の周撫が粛敬文を涪城に攻撃し、斬った。冉閔の子の冉智が鄴にいたが降伏し、督護の[[戴施]]が伝国璽を得て送ってきた。文曰「受天之命,皇帝壽昌」とあったため、百僚はお祝いをした。
 
9月、冉智は其将の[[馬願]]に捕らえられ。[[慕容恪]]に降伏した。中軍将軍の殷浩が北伐の軍を起こし、泗口まで至り、河南太守の[[戴施]]に石門を守備させ、滎陽太守の[[劉遂]]を戍倉垣に追った。
 
冬10月、秦州刺史の王擢が苻健に追われて涼州に奔った。
 
永和9年春正月、大赦を実行した。張重華は王擢を使って苻健の将の苻雄と戦わせたが、王擢軍は敗れた。皇太后と穆帝が揃って建平陵に詣でた。
 
3月、旱が起きた。交州刺史の[[阮敷]]が林邑の范佛を日南で討ち、其五十余りの壘を破った。
 
[[咸康]]8年、琅邪王に封じられた。
夏4月、安西将軍の謝尚を尚書僕射に任命した。
 
[[永和]]元年、散騎常侍に任じられれ、永和12年に中軍将軍を加えられた。升平3年には[[驃騎将軍]]に除せられた。
5月、大疫があった。張重華が再び王擢を使って秦州を襲撃し、秦州を奪取した。仇池公の楊初は苻雄に敗北した。
 
升平5年5月、穆帝が死去した。皇太后は令を出し、哀帝を後継に指名した。<!--曰:「帝奄不救疾,胤嗣未建。琅邪王丕,中興正統,明德懋親。昔在咸康,屬當儲貳。以年在幼沖,未堪國難,故顯宗高讓。今義望情地,莫與為比,其以王奉大統。」於是百官備法駕,迎於琅邪第。-->哀帝は即位し、大赦を実行した。詔を出し、東海王の司馬奕を琅邪に封じた。<!--曰:「朕獲承明命,入纂大統。顧惟先王宗廟,蒸嘗無主,太妃喪庭,廓然靡寄,悲痛感摧,五內抽割。宗國之尊,情禮兼隆,胤嗣之重,義無與二。東海王奕,戚屬親近,宜奉本統,其以奕為琅邪王。」-->
秋7月、地震が起き、有聲如雷が発生した。
 
秋7月、穆帝を永平陵に葬った。[[慕容恪]]が野王を陥落させ、守将の[[呂護]]は滎陽に退いた。
8月、兼太尉・河間王の[[司馬欽]]を遣わして五陵を修復させた。
 
8月己、天が裂け、廣數丈となり、有聲如雷が発生した。
冬10月、中軍将軍の殷浩の軍が山桑まで到達し、平北将軍の姚襄を前鋒としたが、姚襄が叛いて殷浩を攻撃したため、殷浩は輜重を捨てて逃亡し、譙城に逃れた。涼州牧の張重華が死去し、子の張耀霊が跡を継いだ。この月、[[張祚]]が張耀霊を殺害し、涼州牧を自称した。
 
9月、王氏を皇后とした。穆帝の皇后の何氏は永安宮に移った。呂護が反乱を起こし、[[莫容]]に寝返った。
11月、殷浩が部将の[[劉啟]]、[[王彬之]]を派遣し姚襄を討たせたが、再び姚襄に敗れ、姚襄の軍は芍陂まで迫った。
 
冬10月、安北将軍の[[范汪]]が罪を得て庶人となった。
12月、尚書僕射の謝尚に都督豫、揚、江西諸軍事と領豫州刺史を加官し、歴陽に出鎮させた。
 
11月、哀帝は詔を出した<!--曰:「顯宗成皇帝顧命,以時事多艱,弘高世之風,樹德博重,以隆社稷。而國故不巳,康穆早世,胤祚不融。朕以寡德,複承先緒,感惟永慕,悲育兼摧。夫昭穆之義,固宜本之天屬。繼體承基,古今常道。宜上嗣顯宗,以修本統。」-->
永和10年春正月、穆帝は臨朝したが、五陵の改修作業が終了していないため、音楽は鳴らさなかった。涼州牧の張祚が帝位を称した。冉閔の降将の[[周成]]が挙兵して反乱し、宛陵から洛陽を襲撃した。河南太守の戴施が鮪渚に逃れた。しばらくして、地震が起き、有聲如雷が発生した。
 
12月、涼州刺史の[[張玄靚]]が大都督隴右諸軍事・護羌校尉・西平公に昇進した。
2月、太尉・征西将軍の桓温が軍を率いて関中を討伐した。揚州刺史の殷浩が庶人に落され、前の会稽内史の[[王述]]を揚州刺史に任命した。
 
[[隆和]]元年春正月、大赦・改元が実行された。<!--甲寅,減田稅,畝收二升。-->この月。慕容の将の呂護と[[傅末波]]が小壘を陥落させ、洛陽に迫った。
夏4月、桓温と苻健の子の[[符萇]]が藍田で戦い、大いに敗った。
 
2月、輔国將軍。呉国内史の[[庾希]]を北中郎将・徐兗二州刺史に任命し、下邳に出鎮させ、前鋒監軍・龍驤将軍の[[袁真]]を西中郎将・監護豫司並冀四州諸軍事・豫州刺史に任命し、汝南に出鎮させ、双方に仮節を与えた。生母の周氏を皇太妃に追尊した。
5月、江西乞活の[[郭敞]]等が陳留内史の[[劉仕]]を捕虜として反乱を起こし、建康は震駭したため、吏部尚書の[[周閔]]が中軍将軍となり、中堂に駐屯し、豫州刺史の謝尚が歴陽より帰還し建康の守備についた。
 
3月、日蝕が起きた。
6月、苻健の将の苻雄悉眾が桓温と白鹿原で戦い、晋軍が大敗した。
 
夏4月、旱があった。哀帝は詔を出した<!--出輕系,振困乏-->。しばらくして梁州で地震が起き、浩釁山が崩壊した。呂護が再び洛陽に攻め寄せた。その後、輔国将軍・河南太守の[[戴施]]が宛に逃亡した。
秋9月、桓温は兵糧が不足し、撤退した。
 
5月、北中郎将の庾希と竟陵太守の[[鄧遐]]に水軍で洛陽を救援させようとした。
永和11年春正月、侍中・汝南王の[[司馬統]]が死去した。平羌校尉・仇池公の楊初がその部将の[[梁式]]に殺害され,[[楊国]]が跡を継ぎ、鎮北将軍・秦州刺史となった。斉公の段龕が慕容雋の将の榮國を郎山で襲撃したが、敗れた。
 
秋7月、呂護等は退却して小平津を守備した。琅邪王の司馬奕を侍中・驃騎大将軍に昇進させ、開府の権限を与えた。鄧遐は新城まで進み駐屯した。庾希の部将の[[何謙]]は慕容の将の[[劉則]]と檀丘で戦い、敵を撃破した。
夏4月、隕霜があった。しばらくして地震がおきた。姚襄が軍勢を率いて外黃に侵攻したが、冠軍将軍の[[高季]]が撃退し、大いに破った。
 
8月、西中郎将の袁真が汝南まで進み、米五万石を洛陽に輸送した。
5月、再び地震があった。
 
冬10月、米を貧しい者に施した<!--賜貧乏者米,人五斛-->。章武王の[[司馬珍]]が死去した。
6月、苻健が死去し、その子の[[符生]]が跡を継いだ。
 
12月、日蝕が起きた。哀帝は詔を出した<!--曰:「戎旅路次,未得輕簡賦役。玄象失度,亢旱為患,豈政事未洽,將有板築、渭濱之士邪!其搜揚隱滯,蠲除苛碎,詳議法令,鹹從損耍。」-->庾希は下邳より退いて山陽を鎮守し、袁真は汝南より退いて寿陽を鎮守した。
秋7月、[[宋混]]、[[張瓘]]が張祚を殺害し、張耀霊の弟の[[張玄靚]]を大将軍・涼州牧とし、使者を送って降伏を求めてきた。吏部尚書の周閔が尚書左僕射に任命され、領軍将軍の[[王彪之]]が尚書右僕射に任命された。
 
[[興甯]]元年春2月、大赦・改元が実行された。
冬10月、豫州刺史の謝尚を督並冀幽三州諸軍事・鎮西将軍に昇進させ、馬頭に出鎮させた。
 
3月、皇太妃が琅邪第で死去した。哀帝は喪を発し、司徒・会稽王の司馬昱に內外の政務のすべてを委ねた。
12月、慕容恪が軍勢を率いて広固に深刻した。上党人の馮鴦が太守を自称し、苻生から離反し使者を送って降参してきた。
 
夏4月、慕容が滎陽に侵攻し、太守の劉遠は魯陽に逃亡した。しばらくして、揚州で地震が起き、湖瀆が溢れた。
永和12年春正月、穆帝は臨朝したが、生母の皇太后の喪に服するため、音楽は鳴らさなかった。鎮北将軍の段龕が慕容恪と広固で戦い、大いに敗り,慕容恪を安平まで撤退させた。
 
5月、征西大将軍の桓温を侍中・大司馬・都督中外諸軍事・録尚書事を加え、仮の黃鉞を与えた。西中郎将の袁真を再び都督司、冀、並三州諸軍事に任命し、北中郎将の瘦希を都督青州諸軍事に任命した。まもなく、慕容が密城を陥落させ、滎陽太守の劉遠は江陵まで逃亡した。
2月、穆帝は『孝経』の講義を受けた。
 
秋7月、[[張天錫]]が涼州刺史・西平公の[[張玄靚]]を殺害し、大将軍・護羌校尉・涼州牧・西平公を自称した。章皇太妃を葬った。
3月、姚襄が許昌に入城したため、太尉の桓温を征討大都督に任命して討伐させた。
 
<!--8月、有星孛於角亢,入天市。-->
秋8月、桓温は姚襄と伊水で戦い,大いに敗り、姚襄を平陽まで敗走させた。<!--徙其餘眾三千余家于江漢之間,執周成而歸。-->揚武将軍の[[毛穆之]]、督護の[[陳午]]、輔国将軍・河南太守の戴施に洛陽の守備をさせた。
 
9月、大司馬の桓温が軍勢を率いて北伐した。しばらくして、皇子が生れ、大赦が実行された。
冬10月、日蝕が起きた。慕容恪が段龕を広固で攻撃してきたため、北中郎将の荀羨は軍勢を率いて琅邪まで来て救援した。
 
冬10月、陳留王の世子の司馬恢を王とした。
11月、兼司空・散騎常侍[[車灌]]、龍驤将軍[[袁真]]等に持節を与えて洛陽で五陵の修復をさせた。
 
11月、[[姚襄]]の故将の[[張駿]]が江州督護[[趙毗]]を殺害し、武昌に放火し、府藏を略奪して反乱を起こした。江州刺史の[[桓沖]]が討伐に向って斬った。この年、慕容の将の[[慕容塵]]が陳留太守の[[袁披]]と長平で戦った。汝南太守の[[朱斌承]]が許昌に虚襲をかけて勝利した。
12月、五陵で有事があったことを太廟に報告し、穆帝と群臣は皆服喪し、太極殿で三日間をすごした。この年、仇池公の楊国がその従父の[[楊俊]]に殺害され、楊俊は自立した。
 
興甯2年春2月、江陵で地震が起きた。慕容の背将の[[慕容評]]が許昌を襲撃した。潁川太守の[[李福]]が死去した。慕容評は汝南まで襲撃し、太守の朱斌は壽陽まで逃亡した。慕容評はさらに進んで陳郡を包囲したが、太守の朱輔は城を固守した。桓温は江夏相の[[劉岵]]を援軍として派遣し敵を擊退した。左軍将軍が遊擊将軍に改められ、右軍、前軍、後軍将軍と五校三将官が廃止された。哀帝は藉田を耕した。
[[升平]]元年春正月、穆帝は元服し、告天太廟,始親萬機した。大赦・改元を実行し、文武の官吏の位をそれぞれ一等昇格させた。皇太后は崇徳宮に居住した。しばらくして隕石が落ちた。この月、鎮北将軍。斉公の段龕が慕容恪に滅ぼされ、殺害された。扶南の竺旃檀が象を献上してきた。穆帝は詔を出した<!--曰:「昔先帝以殊方異獸或為人患,禁之。今及其未至,可令還本土。」-->
 
3月、[[土断法|庚戌の土断]]が実施された<!--大閱戶人,嚴法禁,稱為庚戌制-->。まもなく、哀帝は体調を崩した。元々哀帝は黃老を好み、薬に頼った生活をしていたため、かえって中毒になったのである。<!--斷谷,餌長生藥,服食過多,遂中毒,不識萬機,-->崇徳太后が再び臨朝することになった。
3月、穆帝は『孝経』の講義を受けた。<!--壬申,親釋奠于中堂。-->
 
夏4月、慕容は其将の[[李洪]]を派遣し許昌に侵攻し、晋軍は懸瓠で敗れ、朱斌は淮南に逃れ、朱輔は彭城に退却した。桓温は西中郎将の袁真と江夏相の劉岵等を遣わして鑿陽儀道の通運を確保させ、自らは水軍を率いて合肥に赴いた。慕容塵は再び許昌に駐屯した。
夏5月、鎮西将軍の謝尚が死去した。苻生の将の[[苻眉]]、[[苻堅]]が姚襄を攻撃し、三原で戦って斬った。
 
5月、<!--遷陳人于陸以避之。-->揚州刺史の[[王述]]を尚書令・衛将軍とし、桓温を揚州牧・錄尚書事とした。まもなく、桓温に入相の要請が来たが、桓恩は従わなかった。
6月、苻堅がを苻生而自立。以軍司謝奕為使持節、都督、安西將軍、豫州刺史。秋七月,苻堅將張平以並州降,遂以為並州刺史。八月丁未,立皇后何氏,大赦,賜孝悌鰥寡米,人五斛,逋租宿債皆勿收,大酺三日。冬十月,皇后見於太廟。十一月,雷。十二月,乙太常王彪之為尚書左僕射。
 
秋7月、再び桓温に入朝の要請があった。8月、桓恩は赭圻まで到達し、居城とした。苻堅の別働隊が河南に侵攻し、慕容は洛陽に侵攻した。
升平2年春正月,司徒、會稽王昱稽首歸政,帝不許。三月,慕容雋陷冀州諸郡,詔安西將軍謝奕、北中郎將荀羨北伐。三月,佽飛督王饒獻鴆鳥,帝怒,鞭之二百,使殿中禦史焚其鳥于四達之衢。夏五月,大水。有星孛於天船。六月,並州刺史張平為苻堅所逼,帥眾三千奔於平陽,堅追敗之。慕容恪進據上党,冠軍將軍馮鴦以眾叛歸慕容雋,雋盡陷河北之地。秋八月,安西將軍謝奕卒。壬申,以吳興太守謝萬為西中郎將、持節、監司豫冀並四州諸軍事、豫州刺史。以散騎常侍郗曇為北中郎將、持節、都督徐兗青冀幽五州諸軍事、徐兗二州刺史,鎮下邳。冬十月乙丑,陳留王曹勱薨。十一月庚子,雷。辛酉,地震。十二月,北中郎將荀羨及慕容雋戰於山荏,王師敗績。
 
9月、冠軍将軍の[[陳祐]]は長史の[[沈勁]]を洛陽の守備に留めて、自身は軍勢を連れて新城まで撤退した。
升平3年春三月甲辰,詔以比年出軍,糧運不繼,王公已下十三戶借一人一年助運。秋七月,平北將軍高昌為慕容雋所逼,自白馬奔于滎陽。冬十月慕容雋寇東阿,遣西中郎將謝萬次下蔡,北中郎將郗曇次高平以擊之,王師敗績。十一月戊子,進揚州刺史王述為衛將軍。十二月,又以中軍將軍、琅邪王丕為驃騎將軍,東海王奕為車騎將軍。封武陵王晞子逢為梁王。交州刺史溫放之帥兵討林邑參黎、耽潦,並降之。
 
興甯3年春正月、皇后の王氏が死去した。
升平4年春正月,仇池公楊俊卒,子世嗣。丙戌,慕容雋死,子嗣偽位。二月,鳳皇將九雛見於豐城。秋七月,以軍役繁興,省用撤膳。八月辛醜朔,日有蝕之,既。冬十月,天狗流於西南。十一月,封太尉桓溫為南郡公,溫弟沖為豐城縣公,子濟為臨賀郡公。鳳皇複見豐城,眾鳥隨之。
 
2月、右将軍の[[桓豁]]を監荊州揚州之義城雍州之京兆諸軍事・領南蛮校尉・荊州刺史とし、[[桓沖]]を監江州荊州之江夏隨郡豫州之汝南西陽新蔡潁川六郡諸軍事・南中郎将・江州刺史・領南蛮校尉とし、双方に仮節を与えた。まもなく、哀帝は西堂において死去した。25歳であった。安平陵に葬られた。
升平5年春正月戊戌,大赦,賜鰥寡孤獨不能自存者,人米五斛。北中郎將、都督徐兗青冀幽五州諸軍事、徐兗二州刺史郗曇卒。二月,以鎮軍將軍范汪為都督徐兗青冀幽五州諸軍事、安北將軍、徐兗二州刺史。平南將軍、廣州刺史、陽夏侯滕含卒。夏四月,大水。太尉桓溫鎮宛,使其弟豁將兵取許昌。鳳皇見於沔北。
 
  五月丁巳,帝崩于顯陽殿,時年十九。葬永平陵,廟號孝宗。
 
== 参考資料 ==
*『晋書』
 
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