「森衆利」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
124.255.2.137 (会話) による ID:36841918 の版を取り消し
5行目:
[[貞享]]3年([[1686年]])3月18日、津山藩家老・関衆之(長継の実弟)の養子となる。[[元禄]]8年([[1695年]])10月4日、[[生類憐れみの令]]により建設される[[武蔵国]][[児玉郡]]中野村の犬小屋の普請総奉行に任命され、その建設に当たった。
 
元禄10年([[1697年]])4月、4代藩主[[森長成]]の発病に伴い、長成には実子が無かったため関家の養子になっていた衆利が森姓に復し、[[末期養子]]に立てられた。6月20日、長成は27歳の若さで死去。将軍拝謁の為の道中、同年7月11日、[[伊勢国]]桑名付近の縄生村に滞在中に発病した上、幕政を批判して[[発狂]]してしまった。酒の席でのことと家臣は弁明をしたが、[[桑名藩]]より詳細な報告が幕府に入り裁定により8月2日に[[改易]]となってしまった。この時、まだ隠居の森長継が存命だったので、聞こえおぼしき家柄である為、特別に再勤を命じられ、[[赤穂藩]]2万石を与えられ子孫は同藩主として存続する。
 
その後は兄の[[森長直]]の下に預けられ、宝永2年(1705年)に[[赤穂藩#西江原藩|西江原]]において33歳で死去した。戒名は寿仙院殿鶴林全松居士。墓所は禅洞山永祥寺([[岡山県]][[井原市]])。