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[[ファイル:Pierodamiani2.JPG|thumb|right|ペトルス・ダミアニ]]
'''ペトルス・ダミアニ'''({{lang-la-short|Petrus Damianus}}、{{lang-it-short|Pier Damiani}}、{{lang-it-short|Pietro Damiani}}、[[1007年]] - [[1072年]][[2月21日]])は[[イタリア]]の[[神学者]]。[[ベネディクト派]][[修道会]]士で、[[11世紀]]に[[グレゴリウス7世 (ローマ教皇)|グレゴリウス7世]]とともに教会改革を推進した。[[枢機卿]]。[[カトリック教会]][[聖人]]であり、[[1823年]]には[[教会博士]]に宣言された。謙遜してペトルス・ペッカトレ("''Petrus Peccator''")<ref>「Peccator」とは「罪人」の意。</ref>と名乗った。[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]は[[神曲]]』の中で[[アッシジのフランチェスコ|聖フランチェスコ]]の先達として高く評価している。
 
==生涯==
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===改革者として===
ペトルス・ダミアニは人里離れた修道院に住んでいたが、教会の運命をしっかり見定めていた。教会にとって嘆かわしい時代であったが、ペトルスは友人ヒルデブランのちのグレゴリウス7世)とともに改革に尽力した。評判の悪かった[[教皇]][[ベネディクトゥス9世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス9世]]が[[1045年]]に首席司祭ヨハネス・グラティアヌス([[グレゴリウス6世 (ローマ教皇)|グレゴリウス6世]])の手によって教皇位からおろされた際は、ペトルスはこれを支持してグレゴリウス6世に手紙を送り、[[ペザーロ]]や[[チッタ・ディ・カステッロ]]、[[ファーノ]]の堕落した司祭などを槍玉に挙げて、イタリア教会の堕落に対処するよう懇請した。
 
また[[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ3世]]と交流を持つなど活動の領域を拡げるようになった。[[クレメンス2世 (ローマ教皇)|クレメンス2世]]がハインリヒ3世と王妃[[ポワトゥーのアグネス|アグネス]]にローマで戴冠した時に、ペトルスはローマに滞在しており、[[1047年]]の年初に[[ラテラノ大聖堂]]で開かれる教会会議に出席し、会議の決議によって[[聖職売買]]は禁止された。
 
===『ゴモラの書』とヒルデブラントの改革===
こののち、ペトルスは修道院に帰還した。[[レオ9世 (ローマ教皇)|レオ9世]]が教皇であった[[1050年]]ごろ、当時の聖職者の堕落ぶりを[[ソドムとゴモラ|ゴモラ]]に喩え、痛烈に批判した論文(『ゴモラの書』“''Liber Gomorrhianus''”)を発表し、教皇に捧げた。この論文で、ペトルス・ダミアニ過剰な欲望に結びついた狂気が引き起こした、風紀の破壊と混乱の例として、[[同性愛]]の行為<ref>相互[[自慰]]、[[素股]]、[[肛門性交]]など。参照:[http://www.fordham.edu/halsall/source/homo-damian1.html]</ref>を批判した。この著作は大きな物議を醸し、少なからずペトルスへの恨みを生んだ。ローマ教皇さえ最初は称賛していたものの、説得されて、のちには誇大な内容であると考えるようになり、教皇の冷淡さに対してペトルスは何度も手紙を送って抗議した。一方で当時、聖職売買による聖職者叙任の有効性が問題となった。ペトルスは[[1053年]]ごろ『秘蹟論』(“''Liber Gratissimus''”)を書いて聖職売買による叙任の有効性自体は擁護し、大いに論争が戦われた<ref>ペトルスの『秘蹟論』に対して、ただちに同じ改革派枢機卿である[[フンベルトゥス]]は『聖職売買者駁論』(“''Libri Tres Adversus Simoniacos''”)を書いて反論し、論争が起こった。</ref>後、[[12世紀]]の間にこの問題が決着する根拠となった。
 
その反面、ペトルスは聖職売買自体には粘り強く反対し、聖職者の結婚にも厳しい批判を向けた。[[ウィクトル2世 (ローマ教皇)|ウィクトル2世]]が教皇であった[[1055年]][[6月]]、ペトルスは[[フィレンツェ]]で開かれた教会会議に臨席し、会議では聖職売買と聖職者の性的堕落が再び批判された。
 
===教皇使節から枢機卿へ===
ペトルスが病気で臥せっていた間に、ウィクトル2世が死に、モンテ・カッシーノ修道院の修道院長フレデリックが新たに[[ステファヌス910世 (ローマ教皇)|ステファヌス910世]]として教皇に選ばれた<ref>当時ローマの貴族たちと改革派は対立しており、改革派はローマの貴族による教皇擁立を阻止する必要があった。この時代、枢機卿による教皇の選挙制度が確立されていくのであるが、このことが「ローマのパトリキウス」として教皇任命権を主張する神聖ローマ皇帝との対立を生み出したのである。</ref>。[[1057年]]秋、ステファヌス910世はペトルスを枢機卿に任命することを決定した。教皇庁の改革者としてより伝道者に心の平安を見出していたペトルスはしばらくの間これを固辞したが、結局受け入れざるを得なくなった。[[1057年]][[11月30日]]、[[オスティア]]の司教となり、枢機卿に列したうえ、グッビオの教区の管轄を任された。

枢機卿になると、ペトルスは枢機卿の大きな責務に感動し突き動かされて、同僚の枢機卿たちに興奮した内容の手紙を書き送った。その中でペトルスは、自分たち以前のすべての枢機卿に勝るほど立派になるべきだと強く説いた。ところが、4ヶ月後にステファヌス910世はフィレンツェで急逝し、[[ベネディクトゥス10世 (対立教皇)|ベネディクトゥス10世]]が選出されたが、このとき教皇使節として[[ドイツ]]に赴いていたヒルデブランなど改革派枢機卿は反対し、教会は分裂した。ペトルスもベネディクトゥス10世を厳しく非難したが、状況は改革派に不利であったために一時的にフォンテ・アヴェッラーナに退いた。
 
===ミラノ===
その後改革派はフィレンツェの司教ゲルハルドゥスを[[ニコラウス2世 (ローマ教皇)|ニコラウス2世]]として擁立した。[[1059年]]の終わりごろ、ペトルスはニコラウス2世によって[[ミラノ]]への使節として派遣された。そのころのミラノは、[[聖職禄]]が公然と売買され、聖職者は公的に妻を娶り、一緒に住んでいるというような堕落した状況にあった。アリアルドやルッカのアンセルムス<ref>のちに[[アレクサンデル2世 (ローマ教皇)|アレクサンデル2世]]となるルッカの大アンセルムス。彼のあとに[[1071年]]にルッカの小アンセルムスがミラノ大司教となっている。</ref>はこれを改革しようとしたが、激しい抵抗にあっていた。そこでニコラウス2世はペトルスを教皇特使とし、アンセルムスを補佐に就けた。このときミラノの聖職者たちは不安を感じ、ローマにはミラノに対する何の権限もないと抗議した。ペトルスは大聖堂にこの群衆を集めて敢然と向き合い、彼の決定をすべての人々に了承させることで、教皇庁の権威を示した。
 
ペトルスはまず大司教と大司教に属するすべての聖職者に、将来にわたって昇進に際して代償を払うことがないよう、厳粛な誓いを要求した。そののち、罪を犯した全員に償いをさせ、独身を守って生きることを選択した者にはふさわしい聖職禄で復帰させた。この穏健的な決定はローマで若干の急進主義者によって批判されたが、結局翻ることはなかった。だがニコラウス2世の死後に論争は再燃し、[[1066年]]のアリアルドの殉教の後もずっと、決着しなかった。ペトルスは批判から逃れようと、泥沼の議論に弁論していたが、ニコラウス2世もヒルデブラントも、彼には同意していなかった<ref>とくにヒルデブラントは聖職売買について、フンベルトゥスに近い立場であった。一方でルッカの大アンセルムス、すなわちアレクサンデル2世はペトルスと考えが近かった。</ref>。
 
===ドイツへ===
ペトルスは[[1061年]][[7月]]のニコラウス2世の死後におこった教会の分裂([[シスマ]])すなわち[[アレクサンデル2世 (ローマ教皇)|アレクサンデル2世]]と[[ホノリウス2世 (ローマ対立教皇)|ホノリウス2世]]の争い<ref>改革派がアレクサンデル2世を選出したのに対し、ローマの都市貴族と改革反対派の司教は神聖ローマ皇帝[[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]に教皇の選出を求めた。こうして帝国議会においてピエトロ・カダルスがホノリウス2世として選出されたが、幼い皇帝の摂政であった母后アグネスの失脚とともに実権を握ったアンノにより、後述のアウクスブルク教会会議が開かれ、決定は覆されることになる。</ref>において、アレクサンデル2世に価値ある支援を与えた。 効果はなかったものの、パルマ司教ピエトロ・カダルス<ref>ホノリウス2世のこと。</ref>に思いとどまるよう全力で説得を試みた。このシスマは最終的に、ペトルスの議論を読んだ[[ケルン大司教]]でありドイツの摂政であった[[アンノ2世]]によって[[1062年]][[10月]]アウクスブルクに教会会議が召集され、アレクサンデル2世を事実上教皇と認める決定<ref>[[公会議]]によって決定が下るまでは、アレクサンデル2世が教皇としての職務を遂行するという決定であった。事実上アレクサンデル2世を教皇と承認したことになる。</ref>が出されることにより決着した。
 
===フィレンツェへ===
[[1063年]]に、アレクサンデル2世はローマで教会会議を開き、ペトルスはクリュニー修道院と[[マコン]]の司教たちの間で起こった論争を解決する使節に任命された。ペトルスは[[フランス]]に到着すると、[[シャロン=シュル=ソーヌ]]([[:en:Chalon-sur-Saône|Chalon-sur-Saône]])に教会会議を召集し、クリュニー側の主張を認め、フランスの教会で争われていたその他の問題も解決して、秋にフォンテ・アヴェッラーナに帰還した。ペトルスがフランスに滞在している間、対立教皇ホノリウス2世はローマを占領しようと活発な動きを示したが、ペトルスはこれを抑えるためにもう一度神聖ローマ皇帝の助力を仰ごうとして、ヒルデブランやアレクサンデル2世の叱責を受けた。
 
[[1067年]]に、ペトルスは司教と[[ヴァッロンブローザ修道院]]の修道士の間での論争を解決するためにフィレンツェに派遣された。司教は修道士たちによって聖職売買をしたと訴えられていた。しかしペトルスは事実関係の判断を誤り、司教の側を支持したので、この仕事は結局失敗に終わった。この問題は翌年に教皇自身によって裁定が下されるまで解決しなかった。
 
===再びドイツへ===
[[1069年]]にハインリヒ4世が性交渉の不成立を理由に妻ベルタとの離婚を求めると、ペトルスは離婚に反対であるローマ教皇の使節としてドイツに赴いた。ペトルスは[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]の議会でハインリヒ4世に懇々と王者としての倫理的基準を諭し、ハインリヒ4世は離婚を撤回してのちにベルタとの間にたくさんの子をなした。この仕事ののち2年の間、ペトルスはフォンテ・アヴェッラーナで静かに暮らした。
 
===ラヴェンナ===
[[1072年]]の初頭にペトルスは[[ラヴェンナ]]に派遣された。ホノリウス2世を支持するラヴェンナ大司教を支持したために[[破門]]されたラヴェンナの住民と[[教皇庁]]の和解を斡旋するためであった。その帰り道ペトルスはファエンツァ近郊で熱に倒れた。サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ<ref>現在の[[サンタ・マリア・ヴェッキア]]。</ref>の修道院で1週間病気に臥せっていた。聖ペテロの司教座の祝祭日<ref>[[2月22日]]</ref>の前夜、祝祭の仕事の指示を出し、それを復唱した後、[[賛美歌]]の終わりとともに息を引き取った。他の教会がペトルスの遺体を移して聖遺物としないよう、すぐに埋葬された。
 
===死後===
教皇の使節としてフランスとフィレンツェでの職務を終えた1067年の時点で、ペトルスは枢機卿を辞職することも可能であった。晩年はヒルデブランと政治的に考えが一致することがなかった。ヒルデブランがグレゴリウス7世として登位する前年にペトルスはファエンツアで死んだ。[[ノーマン・F・カンター]]は「それはグレゴリウス7世を制止できた唯一の人物を舞台から引き下ろした」と述べている<ref>"It removed from the scene the one man who could have restrained Gregory." Norman F. Cantor, "''Civilization of the Middle Ages''", p 251)([[:en:Petrus Damiani|英語版記事]])</ref>。
 
ペトルスの体は6回移転したが、そのたびに墓は豪華になり、[[1898年]]以降はファエンツァの大聖堂の聖者専門の礼拝堂にある。ペトルスは決して公式に聖者の列に加えられることがなかったが、彼の崇拝者がフォンテ・アヴェッラーナをはじめ、モンテ・カッシーノやクリュニーに存在した。[[1828年]][[レオ12世 (ローマ教皇)|レオ12世]]は聖者であると考えて、ペトルスをカトリック教会の[[教会博士]]と宣言した。
 
ペトルスは結び縄を手に持っている枢機卿として描かれる。 また、時にペトルスは、彼の使節としての多くの活躍から、教皇の親書を携える巡礼者として描かれる。
 
==参考文献==