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{{基礎情報 中国君主
|名 =献帝
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}}
 
'''献帝'''(けんてい)は、[[後漢]]の最後の[[皇帝]]。[[諱]]は劉協。[[霊帝 (漢)|霊帝]](劉宏)の次子で、[[少帝弁]](劉弁)の異母弟。母親は王美人
 
== 生涯概要 ==
[[霊帝 (漢)|霊帝]](劉宏)生母次子で、[[少帝弁]](劉弁)の異母弟。母親は王美人は霊帝の寵愛を受けたが、霊帝の皇后の[[霊思何皇后|何氏]]は王美人に嫉妬しこれ受けて毒殺されという。母を失っめ、劉協は霊帝の生母の董太后に養育された。父の霊帝は生前より劉協を溺愛していたという
 
[[中平]]6年([[189年]])4月、父の霊帝が死去した。すると、霊帝の皇太子にはである何氏との子である劉弁が即位することになていが、霊帝は劉協を寵愛し、信任するしていた宦官の[[蹇碩]]に後事を託していた。蹇碩・董太后・[[董重]]と組み、劉弁の外戚である大将軍の[[何進]]を排除し劉協の擁立を目指したが失敗し、同年の9月に劉弁が即位、た。劉協は渤海王、後に陳留王となった。
 
その後、何進と[[十常侍]]が争い朝廷は混乱するが、[[董卓]]が軍を率いて雒陽([[洛陽]])に入城し、少帝と劉協を庇護して混乱を収拾した。董卓は董太后と同族意識を持っていたため何氏を憎み、何太后に圧力を加えて少帝を廃立し弘農王に落し、董太后に養育された劉協を皇帝とした。さらに何太后を董太后に対する不孝の罪で死に追いやった。董卓は[[太尉]]の[[劉虞]]を[[大司馬]]とした上で、自ら太尉となり、鈇鉞と虎賁も与えさせた。また、太中大夫の[[楊彪]]を[[司空]]とし、豫州牧の[[黄エン|黄琬]]を[[司徒]]に任命し、政権を固めた。さらに宦官のために亡くなった太傅の[[陳蕃]]と大将軍の[[竇武]]等を弔わせるなど、名士層に対する配慮を見せた。
 
その後、董卓に反抗して関東で[[袁紹]]ら諸侯が反乱を起こすと、献帝は長安に逃れた。董卓は暴政を敷き、[[太師]]と自称した。
 
長安において董卓が暗殺されると、司徒の[[王允]]が政権を握ったが、短期間で董卓の残党の[[李カク (後漢)|李傕}}]]らのために滅ぼされた。
 
後に李傕}}らが内紛を起こすと、混乱を極める長安で献帝は困窮し、[[楊彪]]や[[董承]]一部の公卿や廷臣に擁されて洛陽への帰還を目指し流浪することになった。苦難の末、[[曹操]]の庇護を受けて許に都を移すことになった。
 
この間、戦乱により、袁紹・[[袁術]]・[[公孫サン|公孫瓚]]・[[劉表]]・[[劉備]]・[[呂布]]・[[孫策]]([[孫権]])・[[韓遂]]ら軍閥が各地で割拠し、献帝を奉じる曹操も勢力拡張のために献帝の権威を借りることのみに汲々とし、献帝の政治的な力は皆無に等しかった。
 
曹操は建安5年([[200年]])の[[官渡の戦い]]で袁紹を破り華北を平定した。建安13年([[208年]])に[[赤壁の戦い]]で孫権に破れ、揚州の平定はならなかったものの、建安17年[[212年]]には[[魏 (三国)|魏]]公となり、建安21年([[216年]])には魏王となった。こうして後漢の内実は曹氏の魏にとって代わられていく。この間、建安19年([[214年]])には献帝の皇后の伏氏が殺害され、献帝曹操の娘を皇后とすることを余儀なくされた。
 
建安25年([[220年]])、曹操が死去し、子の[[曹丕]]が魏王を襲位した。曹丕とそれを支持する朝臣の圧力で同年のうちに、献帝は皇帝の位を譲ることを余儀なくされ、ここに後漢は滅亡した。このとき用いられた譲位の形式は[[禅譲]]と呼ばれ、後世、王朝交代が行われるときの手本となった<ref>献帝の2人の娘は曹丕の妻となったが、これは[[堯]]が[[舜]]に娘を嫁がせた故事をなぞったものである。</ref>。
 
曹丕の意を受けた朝臣らが献帝に禅譲を強要した際、[[皇后]]である[[献穆曹皇后|曹節]]は、漢室への忠義として皇后の玉璽を返還することを幾度も拒み続けたが「とはいえ、私があくまで拒めば、兄は陛下や私に容赦しないでしょう」と嘆息して、使者を激しくなじり「天に祝福されないのか」と嘆き玉璽を放り投げ涙を流した。その場にいた者はみな顔を上げられなかったといわれる<ref>なお『[[三国志演義]]』では版本によって分かれ、李卓吾本では逆に兄への禅譲を献帝に勧めているが毛宗崗本では正史同様に曹丕を非難している。</ref>。
 
献帝は皇帝となった曹丕(魏の文帝)により山陽公に封じられ、皇帝という身分は失っても「[[朕]]」という皇帝だけが使える一人称を使うことを許されるなど、様々な面で厚遇は受けた。また、劉氏の皇子で王に封じられていた者は、みな降格して[[侯#東アジアの侯|列侯]]となった。
 
このとき、益州におい逃れ曹操への抵抗を続けていた劉備は、劉氏の末裔を自称すであ[[劉備]]が割拠と称ており、漢中王を名乗っていたが、劉備の元には献帝が殺されたという誤報が伝えられたためると、劉備は漢室の後継者として皇帝を称した上で(蜀漢)、献帝に対して独自に孝愍皇帝の[[諡]]を贈った。また、揚州を中心に勢力を保った孫権も[[呉 (三国)|呉]]王となり、天下は大陸が魏・呉・蜀とで三分される[[三国時代 (中国)|三国時代]]に突入した。
 
その後の献帝は山陽公夫人となった曹節と共に暮らし、青龍2年(234年)3月、54歳で死去した<ref>5ヶ月後には[[五丈原の戦い]]で蜀(蜀漢)の丞相諸葛亮が戦没している。</ref>。魏は'''孝献皇帝'''と[[号|諡]]した。
 
==末裔==
劉協の太子は父に先立って死んでおり、劉協の孫の劉康が234年に、祖父の跡を継いで山陽公となった。魏より禅譲を受けた[[西晋]]の代になっても山陽公はそのまま存続を許された。劉康は[[285年]]に死去し、子の劉瑾が跡を継いだ。劉瑾は[[289年]]に死去し、子の劉秋が跡を継いだ。
 
[[永嘉の乱]]の真っ最中の[[309年]]、劉秋は[[匈奴]]系の[[前趙|趙漢]](前趙)の将軍である[[汲桑]]の軍によって家族ともども殺害され、爵位は断絶した。こうして、後漢王朝の嫡流は途絶えた。後に[[東晋]]の時代になって、山陽公の末裔を捜索する詔勅が出されている
 
真偽は不明ながら、4世紀から6世紀にかけて[[日本列島]]に渡来した[[渡来人]]の中には献帝の子孫を称するものが多く見られる([[東漢氏]]参照)。
 
== 年譜 ==
[[中平]]6年([[189年]])4月、父の霊帝が死去した。蹇碩・董太后・[[董重]]は大将軍の[[何進]]を排除し劉協の擁立を目指したが失敗する、
 
9月、劉弁が即位、劉協は渤海王、後に陳留王となった。
 
その後、何進と[[十常侍]]が争い朝廷は混乱するが、[[董卓]]が軍を率いて&#38610;陽([[洛陽]])に入城し、少帝と劉協を庇護して混乱を収拾した。董卓は何太后に強要し劉弁を廃位し、劉協を皇帝に即位させた。何太后は董太后に対する不孝の罪で死に追いやられた。董卓は[[太尉]]の[[劉虞]]を[[大司馬]]とした上で、自ら太尉となり、&#37383;鉞と虎賁も与えさせた。また、太中大夫の[[楊彪]]を[[司空]]とし、豫州牧の[[黄エン|黄&#29740;]]を[[司徒]]に任命し、政権を固めた。さらに宦官のために亡くなった太傅の[[陳蕃]]と大将軍の[[竇武]]等を弔わせるなど、名士層に対する配慮を見せた。
 
同年冬10月、何太后を埋葬したが董卓は財宝を略奪している。白波賊が河東に侵略してきたため、董卓は[[牛輔]]に命じてこれを撃退した。11月、董卓は自ら[[相国]]に就任した。12月、司徒の&#40643;&#29740;を太尉に、司空の楊彪を司徒に、さらに[[光禄勲]]の[[荀爽]]を司空に任じた。
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建安2年([[197年]])春、袁術は天子を自称した。3月、曹操の推挙により袁紹が大将軍となった。夏5月、蝗が発生し、秋9月,漢水が溢れた。この年には飢饉が起き、江淮地方が被害を受けた。袁術は陳王の劉寵を殺害する一方、孫策は使者を朝廷に遣わし貢物を奉じた。
 
建安3年([[198年]])夏4月、謁者の裴茂が中郎将の[[段ワイ|段煨]]らを率いて李傕を討ち、三族皆殺しとした。呂布が反乱を起こした。冬11月には呂布に呼応しようとした大司馬の張楊が殺害された。12月、曹操は呂布を徐州において討ち、呂布を斬った。
 
建安4年([[199年]])春3月、袁紹は公孫瓚を易京において攻撃し、公孫瓚を斬った。衛将軍の董承が車騎将軍に任命された。夏6月、袁術が死去した。この年、初めて尚書に左右の僕射が置かれた。また、武陵において女子が死んで14日後に復活した。
 
建安5年([[200年]])春正月、車騎将軍の董承、偏将軍の[[王子服|王服]]、越騎校尉の[[チュウ輯|种輯]]らは密詔を受けて曹操を暗殺しようとしたが、計画が事前に洩れたため曹操は董承等を殺害し、三族皆殺しとした。献帝の側室となっていた董承の娘(董貴人)が妊娠していたが、献帝からの助命嘆願は曹操に拒絶され、董貴人は縊り殺されたという。秋8月、皇子の劉馮を南陽王としたが、すぐに死去した。9月、日食が起きた。詔勅を出して人材を募った。曹操は侵攻してきた袁紹を官度で撃退し、袁紹は敗走した。冬10月、東海王の劉祗が死去した。この年に、孫策が死去し、弟の[[孫権]]がその後継となった。
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建安7年([[202年]])夏5月、袁紹が死去した。[[ホータン王国]]が馴象を献じた。この年、越巂で男子が女子となった。
 
建安8年([[203年]])冬10月、初めて[[司直]]の官が置かれ、中都官を督した。
 
建安9年([[204年]])秋8月、曹操は[[袁尚]]を大いに破り、冀州を平定し、冀州牧になった。
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建安18年([[213年]])春正月、古代の制度に倣い[[九州 (中国)|九州]]が復活した。夏5月、曹操は[[魏 (三国)|魏]]公となり、[[九錫]]を加えられた。大いに雨水が起こった。趙王の劉珪を博陵王に移した。この年に彭城王の劉和が死去した。
 
建安19年([[214年]])夏4月、旱が起き、5月、雨水が発生した。劉備が[[劉璋]]を破り([[劉備の入蜀合戦 (214年)|入蜀]])、益州に割拠した。冬10月、曹操は[[夏侯淵]]に命じて枹罕の宋建を討たせ、之をとりことした。11月、曹操は皇后の伏氏を殺害し、一族を族滅すると共にその2皇子をも殺害した。
 
建安20年([[215年]])春正月、貴人の曹氏(曹操の娘)が皇后となった。秋7月、曹操は漢中を破り、[[張魯]]は降伏した([[陽平関の戦い]])。
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建安23年([[218年]])春正月、少府の耿紀、丞相司直の韋晃らが挙兵をし曹操を殺害しようとしたが失敗し、三族皆殺しとなった([[吉本 (後漢)|吉本の乱]])。
 
建安24年([[219年]])春2月、日食が起きた。夏5月、劉備が漢中を攻略した。秋7月、劉備は漢中王を称した。8月、漢水が溢れた。冬11月、孫権が荊州を攻略した。
 
建安25年([[220年]])春正月,魏王の曹操が死去し、子の[[曹丕]]が襲位した。2月、日食が有った。3月、[[延康 (漢)|延康]]に改元した。冬10月、魏王曹丕に対し、献帝は皇帝の位を譲ることを余儀なくされ、ここに後漢は滅亡した。このとき用いられた譲位の形式は[[禅譲]]と呼ばれ、後世、王朝交代が行われるときの手本となった<ref>献帝の2人の娘は曹丕の妻となったが、これは[[堯]]が[[舜]]に娘を嫁がせた故事をなぞったものである。</ref>
 
[[青龍 (魏)|青龍]]2年(234年)3月、54歳で死去した<ref>5ヶ月後には[[五丈原の戦い]]で蜀(蜀漢)の丞相諸葛亮が戦没している。</ref>。魏は'''孝献皇帝'''と諡した。
曹丕の意を受けた朝臣らが献帝に禅譲を強要した際、[[皇后]]である[[献穆曹皇后|曹節]]は、漢室への忠義として皇后の玉璽を返還することを幾度も拒み続けたが「とはいえ、私があくまで拒めば、兄は陛下や私に容赦しないでしょう」と嘆息して、使者を激しくなじり「天に祝福されないのか」と嘆き玉璽を放り投げ涙を流した。その場にいた者はみな顔を上げられなかったといわれる<ref>なお『[[三国志演義]]』では版本によって分かれ、李卓吾本では逆に兄への禅譲を献帝に勧めているが毛宗崗本では正史同様に曹丕を非難している。</ref>。
 
献帝は皇帝となった曹丕(魏の文帝)により山陽公に封じられ、皇帝という身分は失っても「[[朕]]」という皇帝だけが使える一人称を使うことを許されるなど、様々な面で厚遇は受けた。
 
劉氏の皇子で王に封じられていた者は、みな降格して[[侯#東アジアの侯|列侯]]となった。
 
このとき、益州において劉氏の末裔を自称する[[劉備]]が割拠しており、漢中王を名乗っていたが、劉備の元には献帝が殺されたと伝えられたため、劉備は漢室の後継者として皇帝を称した上で(蜀漢)、献帝に対して独自に孝愍皇帝の[[諡]]を贈った。孫権も[[呉 (三国)|呉]]王となり、天下は三分された。
 
その後の献帝は山陽公夫人となった曹節と共に暮らし、青龍2年(234年)3月、54歳で死去した<ref>5ヶ月後には[[五丈原の戦い]]で蜀(蜀漢)の丞相諸葛亮が戦没している。</ref>。魏は'''孝献皇帝'''と諡した。
 
==末裔==
劉協の太子は父に先立って死んでおり、劉協の孫の劉康が234年に、祖父の跡を継いで山陽公となった。魏より禅譲を受けた[[西晋]]の代になっても山陽公はそのまま存続を許された。劉康は[[285年]]に死去し、子の劉瑾が跡を継いだ。劉瑾は[[289年]]に死去し、子の劉秋が跡を継いだ。
 
[[永嘉の乱]]の真っ最中の[[309年]]、劉秋は[[匈奴]]系の[[前趙|趙漢]](前趙)の将軍である汲桑の軍によって家族ともども殺害され、爵位は断絶した。こうして、後漢王朝の嫡流は途絶えた。
 
真偽は不明ながら、4世紀から6世紀にかけて[[日本列島]]に渡来した[[渡来人]]の中には献帝の子孫を称するものが多く見られる([[東漢氏]]参照)。
 
==宗室==
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*孝献皇后(伏完の娘、伏寿)
*[[献穆曹皇后|献穆皇后]](曹操の娘、曹節)
*曹操の娘2人(名は不明曹憲・曹華
*董貴人(董承の娘、名は不明)
 
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*劉康
 
== 関連項目 =曾孫===
*劉秋
*[[諸葛亮]](生没年が同年)
 
== 参考資料 ==
*[[:zh:s:後漢書/卷9|『後漢書』孝献帝紀]]
*『三国志』
*『晋書』
* 石井仁『魏の武帝 曹操』
 
==脚注==