「献帝 (漢)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
こういうのがいいのかな。
もうちょっと
1行目:
{{修正2|6|年譜の部分の事件羅列についてした部分を見やすくする|date=2011年4月}}
{{基礎情報 中国君主
|名 =献帝
17行目:
|父 =[[霊帝 (漢)|霊帝]]
|母 =王美人
|皇后 =伏氏、曹氏
|陵墓 =
|年号 =[[永漢 (漢)|永漢]]([[189年]])</br>[[中平]]([[189年]])</br>[[初平]]([[190年]] - [[193年]])</br>[[興平 (漢)|興平]]([[193年]] - [[196年]])</br>[[建安 (漢)|建安]]([[196年]] - [[220年]])</br>[[延康 (漢)|延康]]([[220年]])
32行目:
その後、何進と[[十常侍]]が争い朝廷は混乱するが、[[董卓]]が軍を率いて&#38610;陽([[洛陽]])に入城し、少帝と劉協を庇護して混乱を収拾した。董卓は董太后と同族意識を持っていたため何氏を憎み、何太后に圧力を加えて少帝を廃立し弘農王に落し、董太后に養育された劉協を皇帝とした。さらに何太后を董太后に対する不孝の罪で死に追いやった。
 
その後、董卓に反抗して関東で[[袁紹]]ら諸侯が反乱を起こすと、献帝は長安に逃れた。董卓は貨幣を改鋳して経済を混乱させるなど暴政を敷く一方で、[[太師]]と自称し専横を極めた。関東でも袁紹と[[袁術]]が対立したり、[[孫堅]]が[[劉表]]を攻撃したり、[[劉虞]]が[[公孫サン|公孫瓚]]に殺害されるなど、諸侯同士が争うようになった。
 
長安において董卓が[[呂布]]に暗殺されると、司徒の[[王允]]が政権を握ったが、短期間で董卓の残党の[[李カク (後漢)|李&#20629;}}]]らのために滅ぼされた。
 
後に李&#20629;}}らが内紛を起こすと、混乱を極める長安で献帝は困窮し、[[楊彪]]や[[董承]]一部の公卿や廷臣に擁されて洛陽への帰還を目指し流浪することになった。苦難の末、関東の諸侯の1人である[[曹操]]の庇護を受けて許に都を移すことになった。
 
この間、戦乱により、袁紹・[[袁術]][[公孫サン|公孫瓚]][[劉表]]・[[劉備]]・[[呂布]]・[[孫策]]([[孫権]])・[[劉璋]]・[[韓遂]]ら軍閥が各地で割拠し、献帝を奉じる曹操も勢力拡張のために献帝の権威を借りることのみに汲々とし、献帝の政治的な力は皆無に等しかった。
 
曹操は建安5年([[200年]])の[[官渡の戦い]]で袁紹を破り華北を平定した。建安13年([[208年]])、曹操は荊州を平定したが、[[赤壁の戦い]]で孫権と劉備に破れ、揚州の平定はならなかったず、荊州のの失陥した。曹操は孫権や劉備と争う一方で、建安17年[[212年]]には[[魏 (三国)|魏]]公となり、建安21年([[216年]])には魏王となった。こうして後漢の内実は曹氏の魏にとって代わられていく。この間、建安19年([[214年]])には献帝の皇后の伏氏が殺害され、献帝曹操の娘を皇后とすることを余儀なくされた。
 
建安25年([[220年]])、曹操が死去し、子の[[曹丕]]が魏王を襲位した。曹丕とそれを支持する朝臣の圧力で同年のうちに、献帝は皇帝の位を譲ることを余儀なくされ、ここに後漢は滅亡した。このとき用いられた譲位の形式は[[禅譲]]と呼ばれ、後世、王朝交代が行われるときの手本となった<ref>献帝の2人の娘は曹丕の妻となったが、これは[[堯]]が[[舜]]に娘を嫁がせた故事をなぞったものである。</ref>。