「ゲオルク (メクレンブルク=シュトレーリッツ大公)」の版間の差分

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'''ゲオルク'''(<span lang="de" xml:lang="de">'''Georg'''</span>, [[1779年]][[8月12日]] - [[1860年]][[9月6日]])は、[[メクレンブルク=シュトレーリッツ大公国]]の[[大公]](在位:[[1816年]] - [[1860年]])。[[カール2世 (メクレンブルク=シュトレーリッツ大公)|カール2世]]の三男。全名は'''ゲオルク・フリードリヒ・カール・ヨーゼフ'''(<span lang="de" xml:lang="de">'''Georg Friedrich Karl Joseph'''</span>)。
 
ゲオルクは[[1779年]][[8月12日]]、メクレンブルク=シュトレーリッツ公カール2世とその最初の妃であった[[ヘッセン=ダルムシュタット]]方伯子[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット|ゲオルク・ヴィルヘルム]]の娘[[フリーデリケ・カロリーネ・ルイーゼ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット (1752-1782)|フリーデリケ・カロリーネ・ルイーゼ]](1752年 - 1782年)の間に第八子として[[ハノーファー]]で生まれた。
 
[[1806年]]には、父の名代として[[フランス第一帝政|フランス]]皇帝[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]との交渉にあたり、メクレンブルク=シュトレーリッツの[[ライン同盟]]参加に合意した。ナポレオン没落後の[[ウィーン会議]]にも参加し、ここでは義兄[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]の支持もあってメクレンブルク=シュトレーリッツは大公国へと陞格した。