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延宝8年(1680年)10月9日、[[陸奥国]][[白河藩]]主・松平直矩(越前松平家支流)の三男として生まれる。元服して父・直矩の偏諱を受け'''矩栄'''と名乗る。
 
[[元禄]]6年([[1694年]])、[[越後騒動]]で改易されたのち、合力米にて3万俵を与えられていた[[松平光長]](元越後高田藩主)の養嗣子となり、光長の偏諱を受け松平釆女'''長矩'''と改めた。

[[元禄]]10年([[1697年]])に光長が隠居すると「松平越後守」を称することを許され越前松平家嫡流を相続した、翌年には長矩に対し美作の内で10万石が与えられた。[[津山城]]を与えられ美作の大部分を領した長矩は津山藩を立藩し、堂々たる城主格国持大名として準[[国主]]として幕府から遇された。津山藩松平の始まりである。

越前越後以来の家臣はもとより、以前の津山藩の旧領主である[[森氏]]([[森衆利]])の遺臣など、人材を江戸や京洛にても求め、積極的に登用し、藩の運営を始めるが、同年、年貢を高く設定した<ref group="注">森氏津山藩改易ののち、一年余[[天領]]であったため、税率が比較的低く抑えられていた。</ref>ために農民一揆([[高倉騒動]])が発生する。果断を持ってこれを乗り切ったが、この反省から、長矩は庄屋制度や大庄屋制度の改革による農村支配制の強化、財政改革を行なった。
 
立藩直後の元禄11年9月、江戸で起こった[[勅額火事]]により、幕府より預かったばかりの藩邸を全消失した。のちに江戸城至近の鍛冶橋付近に藩邸用地7000坪<ref group="注">複数の大名家屋敷を移転させて確保されたこの藩邸用地は、のちに1万2千坪にまで拡大する。</ref>と金1万両を与えられ、江戸上屋敷を再建した。
 
のちに将軍家([[徳川家宣]]の賜諱を受け、'''松平宣富'''と再度改名した。
 
享保6年(1721年)2月7日に死去。享年42。後を長男・浅五郎が継いだ。