「ヴィルヘルム・フォン・ホーエナウ (1854-1930)」の版間の差分

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ヴィルヘルムはプロイセン王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]の末息子であるプロイセン王子[[アルブレヒト・フォン・プロイセン (1809-1872)|アルブレヒト]]と、その2番目の妻でプロイセン軍事大臣[[グスタフ・フォン・ラオホ]]の娘である[[ロザーリエ・フォン・ラオホ]]の間に生まれた。両親の結婚が[[貴賤結婚]]とされたため、ヴィルヘルムと弟の[[フリードリヒ・フォン・ホーエナウ|フリードリヒ]]は[[ホーエンツォレルン家]]の正式な一員として認められなかった。
 
ヴィルヘルムはプロイセン軍に仕官し、最終的には陸軍中将、皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の副官、第1近衛騎兵旅団長にまで登りつめた。ヴィルヘルムは皇帝ヴィルヘルム2世の取り巻きが形成する「[[リーベンベルク円卓]]」の一員に数えられ、このために[[ハルデン=オイレンブルク事件]]にも巻き込まれた。彼は[[同性愛]]容疑で裁判にかけられて無罪判決を受けたが、裁判中に軍隊の階級を剥奪され、軍人としてのキャリアを失った( 当時のドイツでは法律で同性愛行為が犯罪視されていたため )
 
1914年に弟のフリードリヒが亡くなった後、ヴィルヘルムはアルブレヒツブルク城に移り住んだが、彼は賭け事で莫大な借金を作り、1925年には城を含むドレスデンの所領を売却することを余儀なくされた。ヴィルヘルムは[[ドレスデン]]のバウツナー通りで貧窮のうちに死んだ。ヴィルヘルムは母や弟と一緒にドレスデンのヴァルトフリートホーフ・ヴァイサー・ヒルシュ墓地(「白い鹿の森の墓地」)に葬られている。
 
ヴィルヘルムは1878年にザウルマ・フォン・ウント・ツー・デア・イェルチュ伯爵夫人ラウラ(Gräfin Laura Saurma von und zu der Jeltsch、1857年 - 1884年)と最初の結婚をし、間に2人の娘をもうけた。さらに1887年にはホーエンローエ=エーリンゲン侯[[フーゴー・ツー・ホーエンローエ=エーリンゲン|フーゴー]]の娘マルガレーテ(1864年 - 1940年)と再婚し、間に一男一女をもうけた。一人息子のフリードリヒ・ヴィルヘルム(1890年 - 1918年)は[[第1次世界大戦]]で戦死している。