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=== 青海波、父の死 ===
[[安元]]2年([[1176年]])3月4日、19歳の時に[[後白河法皇]]50歳の祝賀で、烏帽子に桜の枝、梅の枝を挿して「[[青海波]]」を舞い、その美しさから'''桜梅少将'''と呼ばれる。青海波の様子は『[[玉葉]]』や『[[安元御賀日記]]』などにも詳細に記されており、臨席した[[藤原隆房]]はその様子を、{{Quote|「維盛少将出でて落蹲(らくそん)入綾をまふ、青色のうえのきぬ、すほうのうへの袴にはへたる顔の色、おももち、けしき、あたり匂いみち、みる人ただならず、心にくくなつかしきさまは、かざしの桜にぞことならぬ」}} と書いている。また『[[建礼門院右京大夫集]]』ではその姿を[[光源氏]]にたとえている。
 
[[治承]]3年(1179年)7月、清盛の後継者と目されていた父重盛が病死し、叔父の[[平宗盛|宗盛]]が平氏の棟梁となると、維盛ら重盛の息子達は平氏一門で微妙な立場となる。維盛の妻が[[鹿ケ谷の陰謀]]で殺害された[[藤原成親]]の娘である事も、維盛の立場を苦しいものにしていた。鹿ケ谷の陰謀で自らもその妹を娶っていた藤原成親が処刑されたことで自らの後継者としての地位が揺らぐ中で重盛は死去している。そうした中で重盛の死後に後白河法皇が重盛の知行国[[越前国]]を没収したことは、重盛の遺児である維盛らの生活基盤を脅かすものであり、重盛家の離反回避に努めていた清盛を強く刺激した。一知行国に過ぎない越前国を巡る対立が[[治承三年の政変]]による後白河法皇幽閉にまで発展した背景には、清盛と重盛及びその子供達との微妙な関係が背景にあったと考えられている<ref>[[河内祥輔]]『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館、2007年。ISBN 4642028633</ref>。