「筒井城」の版間の差分

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== 沿革 ==
[[ファイル:Tutuij9.jpg|thumb|left|250px|筒井城をはしる[[中街道 (下ツ道)|吉野街道]](築城当時は更に鍵の手状に折れていたと考えられている)]]
筒井城が築かれた時期については不明であるが、文献上の初見は『満済准后日記』に、[[大和永享の乱]]が始まった{{和暦|1429}}で[[城主永享]]元年([[1429年]])で城主は[[筒井順覚]]。この時は「筒井館」と記載されている事もあった。その後、戦乱の世を生き延び居館から城郭へ発展していったのではないかと思われている。その後{{和暦|[[嘉吉]]元年([[1441}}年]])には城主は[[筒井順永]]にうつり、[[応仁の乱]]、戦国時代を通じて何度か筒井城をめぐる[[攻城戦]]が行われその[[史料]]も豊富に残されている。
 
応仁の乱は[[細川勝元]]を総[[大将]]する東軍と、[[山名宗全]]を総大将すが率いる西軍の争いであったが、[[河内国|河内]]ではそれ以前に[[畠山義就]]と[[畠山政長]]が分かれて争っており、これに大和の[[国人]]衆が真っ二つに分かれてそれぞれに加勢し、その流れに応仁の乱が巻き込まれていく。{{-}}
=== 第一次筒井城の戦い ===
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[[ファイル:Tutuij5.jpg|thumb|left|250px|筒井城の案内看板]]
[[畠山氏]]の家督争いをめぐる大和国の諸士にも大きな影響を与える事になる。この争いに筒井順永は[[畠山政久|畠山弥三郎]]に組みしていたが、[[康正]]元年([[1455年]])7月2日に畠山義就軍は筒井城を攻城し、[[成身院光宣]]、筒井順永兄弟は防戦したが緒戦で敗北した。
 
しかし、筒井城そのものは頑強に持ちこたえた。この戦いで大和に点在する[[西大寺 (奈良市)|西大寺]]や[[興福寺]]等の寺院は脅え、同年8月10日には門を閉じてしまった。その事が呼び水になったのか、同日[[貝吹山城 (大和国)|貝吹山城]]にいた越智伊予守が出軍して、筒井城の攻囲軍に加わった。この頃箸尾氏、片岡氏は筒井氏の[[与力]]になっていて、[[箸尾城]]、[[片岡城]]を守っていたが、畠山義就、越智伊予守連合軍は圧倒的多数によって、これらの城も攻城した。各所で激戦となったようだが、同年8月19日に筒井城、箸尾城、片岡城は落城した。光宣、順永兄弟は[[福住城]]へ落ち延びていった。
 
その後、[[管領]]細川勝元の仲介によって畠山義就、越智伊予守連合軍と和睦し、[[長禄]]3年([[1459年]])6月1日に光宣、順永兄弟と[[箸尾宗信]]は帰城することになり、筒井城にいた越智伊予守軍は城を去って行った。{{-}}
 
=== 第二次筒井城の戦い ===
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第一次筒井城の戦いから11年後、再び大和、河内で勢力を拡大してきた畠山義就が筒井城にも攻城してきた。この時もかなりの大軍だったらしく、抗しきれなかった筒井順永軍は、筒井城から脱出し南西へ約10km距離をおいた箸尾城に退避した。
 
義就の反対勢力であった畠山政長に属していた諸将は、この時それぞれの城下町が焼かれ、多くの死傷者が出て、殆どが敗れていた。この時の悲惨な状況は『大乗院寺社雑記事』に詳しく記述されている。その後大和は義就派に抑えられることになる。
[[ファイル:Tutuij6.jpg|thumb|left|250px|光専寺の山門/筒井城内に建つ]]{{-}}
=== 第三次筒井城の戦い ===
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[[ファイル:Tutuij8.jpg|thumb|left|250px|筒井城の北側より北東方向を撮影]]
筒井順永は筒井氏の中興の明主と言われ、大和国[[武士]]随一の地位を築き、[[十市氏]]、[[布施氏]]、[[宝来氏]]、[[木津氏]]、箸尾氏、[[福住氏]]等の[[国人]]衆を麾下に加えていった。俗に「筒井党」と称されることになる。そのしかし、順永が[[文明 (日本)|文明]]8年([[1476年]])4月3日に死去すると筒井城も再び狙われることになる。
 
筒井順永の後は長男の[[筒井順尊]]が継いだが、[[越智家栄]]、[[古市氏]]連合軍は抜け目なく翌文明9年([[1477年]])1月に攻城してきた。この時筒井順尊はこれらを反撃する力はまだなく、『大乗院寺社雑記事』によると、
{{Cquote3|
十一日、夜筒井本城焼失|4=大乗院寺社雑記事
と記載されている。その後順尊は未だ勢力圏にあった福住城に逃げ去って行った。
 
その後、同年10月改めて畠山政長軍に合力した筒井順尊は、箸尾氏らと共に[[河内国]]に出軍したが敗れ、大和に引き返した。この敗戦がきっかけとなり越智党を勢いづけることになり、本格的に大和を支配することになる。一方順尊は[[長享]]3年([[1489年]])7月22日に[[京都]]で客死してしまい弟の[[成身院順盛]]が順尊の遺児[[筒井順賢|順賢]]の後見人として筒井氏を取り仕切ることになる。
 
=== 第四次筒井城の戦い ===
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[[ファイル:Sugataniji2.jpg|thumb|left|250px|菅田比売神社の本殿/筒井城内に建つ]]
畠山義就軍は、反対勢力にあった[[太田が籠(していた河内国)|太[[犬田城]]を文明15年([[1483年]])8月13日より攻城した。この時「越智党」に属していた古市氏は大いに武名を上げ、同年9月27日に犬田城は落城した。勢いに乗った古市軍は、その2日後同年9月29日に筒井城も攻城した。この動きに即応して十市、箸尾両軍は援護に回るべく筒井城の南側にある結崎に陣取った。古市軍は調略を巡らし、箸尾軍は古市軍へ寝返り、筒井城は落城してしまった。
 
筒井軍は東山内へ落ち延びていき、十市軍は藤井方面に逃げ去って行った。この戦いで周辺の村は焼かれてしまった。{{-}}
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[[ファイル:Sugataniji.jpg|thumb|left|250px|菅田比売神社の拝殿/筒井城内に建つ]]
[[永正]]年間には大和は[[赤沢朝経]]やその[[養子]][[赤沢長経|長経]]に抑えられていた。この時大和の国人衆は協力対抗して交戦した。「[[国一揆|国人一揆]]を形成、大和国人一揆衆とも呼ばれている。ただ古市氏や狭川氏はこの一揆衆には加わらず赤沢朝経軍に加担したようである。しかし[[永正の錯乱]]がおき赤沢軍は京都に退いていくと、大和国の覇権をめぐり再び争い始める事になる。それまで越智党と戦術的に[[和議]]を結んでいた筒井党であったが、もともと宿敵関係にあった越智氏、古市氏が永正13年([[1516年]])10月に攻城して、成身院順盛軍は敗れ去る事になる。
 
しかし[[永正の錯乱]]で[[細川政元]]が[[暗殺]]、赤沢朝経が[[丹後国|丹後]]で戦死、大和で駐留していた赤沢軍が京都に退いていくと、大和の覇権をめぐり再び争い始める事になる。それまで越智党と戦術的に和議を結んでいた筒井党であったが、もともと宿敵関係にあった越智氏、古市氏が永正13年([[1516年]])10月に攻城して、成身院順盛軍は敗れ去る事になる。
この頃、越智党には[[畠山義央]]が、筒井党には[[畠山義稙]]が加わったが、翌永正14年([[1517年]])8月に両者の間で和睦が成立すると、筒井、越智、古市氏の間でも和議が成立した。{{-}}
 
この頃、越智党には[[畠山義]]が、筒井党には[[畠山]]が加わったが、翌永正14年([[1517年]])8月に両者の間で和睦が成立すると、筒井、越智、古市氏の間でも和議が成立した。{{-}}
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[[ファイル:Tutuijk5.jpg|thumb|筒井順慶の五輪塔覆堂/重要文化財指定]]
その後大和は二転三転する。越智、古市氏の間でも和議が成立し、成身院順盛筒井氏はようやく大和の覇権を握れる段になるが、突然{{和暦|1518}}如[[享禄]]元年([[1528年]])に[[柳本賢治]]が乱入してくると頓挫してしまう。しかしその柳本賢治が[[中嶋の戦い]]で[[暗殺]]されると[[木沢長政]]が大和北半国を治める事になった。しかし木沢が、長政も[[太平寺の戦い]]で討死にすると、今度は[[十市遠忠]]が台頭してきて[[筒井順昭]]は十市遠忠と大和の覇権をめぐって競い合った。しかしその十市遠忠も{{和暦[[天文 (元号)|天文]]14年([[1545}}年]])遠忠も死亡すると、念願であった大和の制圧に成功した。
 
しかし、悲運にも苦労して大和の覇権を勝ち取った順昭であったが、同年に急死してしまう。[[家督]]子の[[筒井順慶|順慶]]に移ったがまだ幼少であったため、[[松永久秀]]が{{和暦|[[永禄]]2年([[1559}}年]])に大和へ侵攻し、筒井城は[[永禄]]8年([[1565年]])11月に久秀から攻撃をうけ、炎上してしまった。その後[[東大寺大仏殿の戦い]]があり翌永禄9年([[1566年]])6月-11月には取り戻すが、永禄11年([[1568年]])10月に再び松永軍に占領されてしまう。
:''この時の[[筒井氏]]、[[松永氏]]の[[攻城戦]](第六次筒井城の戦い以降)ついては[[筒井城の戦い]]も参照。''
松永方に移った筒井城は[[多聞山城]]、[[信貴山城]]に次ぐ重要拠点して用いられた。これは[[郡山城 (大和国)|郡山城]]を攻める拠点として、また[[多聞山城]][[信貴山城]]のルートを確保するため繋ぎの城、[[支城]]であった。この時の松永方の[[史料]]には筒井城の事を「[[平城]]」とだけ記されている。
 
その後[[元亀]]2年([[1571年]])8月、松永軍と[[辰市城#辰市城の合戦|辰市城の合戦]]で筒井軍が勝利すると、筒井順慶の力は侮れないと見たのか、[[明智光秀]]の仲介により[[織田信長]]に帰服を許し筒井城を回復した。{{和暦|やがて久秀は信長に謀反を起こして自殺([[信貴山城の戦い]])、一方の順慶は[[天正]]7年([[1579}}年]])に筒井城を大改修しようと多聞山城の[[石垣]]を筒井城に移したが、信長の「大和一国破城命令」により[[廃城]]とし、居城を郡山城に移した。翌[[天正]]8年([[1580年]])8月17日の事であった。
 
=== 歴代城主 ===
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