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|死没地 =
|ピン音 = Zhāng Fēi
|字 = 益
|諡号 = 桓侯
|廟号 =
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}}
 
'''張 飛'''(ちょう ひ、? - 章武元年([[221年]])6月<ref>『三国志』蜀志「先主伝」</ref>)は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]に、[[劉備武将]]。[[字]]は益徳<ref>『[[三国志演義]]』では字は「'''翼徳'''(よくく)」。</ref>。涿郡(現在建国した[[蜀|蜀漢河北省]]に仕えた[[武将タク県|涿県]])の人。『[[三国志 (歴史書)|三国志]](正史)36巻{{Lang|zh-hant|』[[書六 關張馬黃趙傳}}]]志<ref>{{cite wikisource|三國志/卷36#.E5.BC.B5.E9.A3.9B|陳壽|zh|nobullet=yes}}</ref>』では姓は張、[[諱]]は飛、[[字]]は「'''益德'''」で張益徳。なお、『[[三国志演義]]』では「'''翼德'''(よくとく)」で張翼徳としていに伝がある。[[封号]]は新亭侯。[[諡]]は桓侯。子に[[張苞]]・[[張紹]][[敬哀皇后]]・[[張皇后 (劉禅)|張皇后]]がいる。孫に[[張遵]]
 
後漢末の群雄の1人で、三国時代の蜀(蜀漢)の創始者となった劉備の挙兵当初から付き従った古参人物で、その人並み外れた勇猛は、下述の通り[[中華]]に轟いていた。その武勇は後世にも称えられ、三国志演義』を始めとした創作作品でも多くの活躍脚色加えて取り上げられ、現在でも[[中国]]や[[日本]]を中心おいて大いに親しまれる。
 
==事績生涯==
===劉備に従う===
涿郡(現在の[[河北省]][[タク県|涿県]])の人。同郡に住む劉備が[[黄巾の乱]]にのぞんで義勇兵を集めようとした時、他所から流れてきた[[関羽]]と共にその徒党に加わり、その身辺警護をつとめる事となった<ref>『三国志』蜀志「関羽伝」</ref>。以後は終生、関羽と共に劉備から兄弟の様な親愛の情を受けることとなったが、大勢の前では劉備を主君として立て、命がけで護衛の任務を務めたという<ref>『三国志』蜀志「関羽伝」</ref>。また、関羽の方が数年年長であった為、関羽を兄のように敬愛して仕えていた。
 
やがて劉備が[[公孫サン|公孫瓚]]に取り立てられて平原[[郡]]の相となると、関羽とともに別部司馬に任じられ、それぞれが一軍を率いる将となった<ref>『三国志』蜀志「関羽伝」</ref>
 
[[194年]]、劉備は身を寄せていた[[徐州]][[牧]]・[[陶謙]]に位を譲られて徐州の牧となる<ref>『三国志』蜀志「先主伝」</ref>建安元年([[196年]])、劉備は徐州に侵略した[[袁術]]と戦っている最中、張飛は本拠地である[[ヒ州市|下邳]]の留守を任されていたが、そこで陶謙の旧家臣である下邳の相[[曹豹]]と対立した<ref>『三国志』蜀志「先主伝」が引く『英雄記』によると、張飛が曹豹を殺害しようとしたというその隙</ref>。劉備身を寄せていた[[呂布]]が、劉備と袁術が1ヶ月睨みあっている隙に下邳を攻撃すると、曹豹が寝返り呂布に呼応したため、陥落させ張飛は敗北し、劉備の妻子を曹操の捕虜にされてしまう。劉備と呂布は一旦は和睦したが、再び呂布に攻められた為、劉備は[[曹操]]の元に身を寄せた。
 
劉備と呂布は一旦は和睦したが、再び仲違いを起こし、劉備は[[曹操]]の元に身を寄せた。張飛は呂布討伐の曹操の軍に劉備とともに従軍し、その戦いでの功績を認められて、許に戻ったときに曹操より[[中郎将]]に任命された。

その後、劉備が曹操に背き、[[袁紹]]・[[劉表]]に相次いで身を寄せると、それにも付き従って、各地で転戦した。
 
『[[三国志]]9巻{{Lang|zh-hant|魏書9 諸夏侯曹傳}}<ref>{{cite wikisource|三國志/卷09#.E5.A4.8F.E4.BE.AF.E6.B8.8A|陳壽|zh|nobullet=yes}}</ref>』[[夏侯淵]]伝注この間『[[魏略]]』に「{{Lang|zh-hant|初 建安五年 時霸從妹年十三四 在本郡 出行樵採 為張飛所得 飛知其良家女 遂以為妻 產息女 為劉禪皇后}}」と[[建安 (漢)|建安]]5年([[200年]])、曹操の臣下の[[夏侯淵]]の13-14歳の[[いとこ|従妹]]張飛らわれえて妻とした。<ref>『三国志』魏志「諸夏侯曹伝」。ったが張飛と夏侯氏との間の娘[[敬哀皇后]]・[[張皇后 (劉禅)|張皇后]]は二人とも蜀の2代皇帝[[劉禅]]の后になっている。後に魏で[[司馬懿]]による政権掌握の政争が起こったとき、夏侯淵の子の[[夏侯覇]]その伝手を頼って蜀に亡命してきている。</ref>
 
===長坂橋大喝===
建安13年([[208年]]、[[荊州]]牧・[[劉表]]が死ぬと、曹操が荊州に南下する。曹操を恐れた劉備が妻子も棄てて、わずか数十騎をしたがえて逃げ出すという有様の中、張飛は[[殿軍]]を任され、当陽の長坂において敵軍を迎えた([[長坂の戦い]])。張飛は二十騎の部下とともに川に拠って橋を切り落とし、「我こそは張益徳。いざ、ここにどちらが死するかを決しよう」と大声でよばわると、曹操軍の数千の軍兵はあえて先に進もうとはせず、このために劉備は無事に落ち延びることが出来た。
 
劉備[[赤壁の戦い]]の後、荊州の部四郡を攻略し、[[周瑜]]とともに[[江陵]]を攻略すると、張飛宜都[[太守]]・征虜将軍としてに任命され新亭侯に封じられた。しばらくして張飛は南郡に転任させすることになった。
 
===劉備軍の主将===
建安16年([[211年]]、劉備が[[劉璋]]に招かれて[[益州]]入りした([[劉備の入蜀]])建安17年([[212年]]、劉備が[[法正]]らと謀って益州攻略を企てると、張飛は[[諸葛亮]]・[[趙雲]]・[[劉封]]らと共に援軍として益州に攻め込み、手分けして太守の[[厳顔]]生け捕りに平定した([[入<ref>『三国志』合戦 (214年)|入蜀合戦]])志「先主伝」、「諸葛亮伝」、「劉封伝」</ref>
 
江州では巴郡太守の[[厳顔]]を生け捕りにした。このとき、張飛は自身が大軍を率いてやってきたのに、厳顔が少数で抗い、降伏しなかったことに腹を立て、厳顔を詰問した。厳顔は「あなた方は無礼にも、我が州(益州)に武力をもって侵略した。我が州には首をはねられる忠臣は居ても、降伏する将軍はいないのだ」と張飛を面罵した。腹を立てた張飛は、部下に彼の首を切らせようとしたが、厳顔がそこでさらに「首をはねるなら、さっさとすれば良い。どうして腹を立てることがあるのだ」といったので、張飛は厳顔を見事だと思い、彼を釈放し、以後は賓客として扱った。
 
張飛は劉璋軍との全ての戦いで勝利し<ref>『三国志』蜀志「[[張裔]]伝」によると、張裔は劉璋の命令で徳陽の陌下で張飛を迎撃しようとしたが、敗れている。</ref>、[[成都]]で劉備と落ち合った。
 
劉備は益州奪取における張飛の功績を評価し、諸葛亮・法正・張飛・(関羽<ref>『三国志』蜀志「先主伝」、「関羽伝」によると、関羽はこのとき荊州の留守を守っ任されてい)関羽。</ref>と同等に金五百斤・銀千斤・五千万両・綿千匹の褒賞を与えた。張飛は巴西太守に任じられた。
 
建安20年([[215年]]、曹操[[漢中]]の[[張魯]]を攻略と、配下の[[夏侯淵]]と[[張コウ|張郃]]に漢中を守備させた。張郃宕渠、蒙頭、蕩石に軍を進めて巴西の住民を奪い、漢中へ移住させようと企てた。張飛は、張郃の軍と50日あまり対峙した後、精鋭の一万人ほどを率いて山道の隘路を利用して迎え撃つ計略作戦を立てた。結果、張郃はその計略にはまり、狭い山道の中で軍が前後で間延びしたために各個撃破され、自身はたった数十人の部下とともに脱出する羽目になる。こうして張飛は張郃の軍を撃退することに成功した。
 
建安24年([[219年]])春、劉備が漢中を攻略すると、張飛は[[右将軍]]・仮節に任命された。
 
劉備は成都に政庁を置くことにしたため、前線の漢中の守備を誰に任されるかということになったとき、周囲は張飛に任されるものと思い、張飛自身もそう考えていたが、劉備は[[魏延]]を抜擢した<ref>『三国志』蜀志「魏延伝」</ref>。
 
同年秋、張飛は他の群臣達と共に劉備を漢中王に推挙した<ref>『三国志』蜀志「先主伝」</ref>。
 
===最期===
章武元年([[221年]]、劉備が皇帝に即位し蜀(蜀漢を建国すると、張飛は[[車騎将軍]][[司隷校尉]]に任命され、西郷公に昇進した。しかし同年、劉備が[[呉 (三国)|呉]]に対して荊州奪還戦をすることになると、張飛は1万の兵士を率いて閬中を出発し、江州で劉備と合流することになった。その準備をしている最中である同年6月<ref>『三国志』蜀志「先主伝」</ref>、かねてから張飛に恨みを抱いていた部下の[[張達]]・[[范彊]]に殺された。劉備はかねてより張飛が刑罰を頻繁に行い、さらにその部下を自分の近侍として仕えさせたままでいることを戒めていたが、張飛の[[都督]]から上奏文が届けられたと聞くと、その内容を聞く前に「ああ、(張)飛が死んだ」と悟ったという。
 
長男の張苞は若死していたため、次男の張紹が跡を継いだ。
 
[[景耀]]3年([[260年]])秋2代皇帝[[劉禅]]によって桓侯と諡された<ref>『三国志』蜀志「後主伝」</ref>
 
==人物==
===その武勇===
『正史・劉備が皇帝に即位した直後の詔勅では、張飛のことを古代の[[三国志 (歴史書)|三国志召虎]]おい称え張飛は、その武勇を賞讃している。また、曹操の参謀であった[[程イク|程昱]]らから「張飛の勇猛さは関羽に次ぐ」さらに「一人で一万の兵に匹敵する」と、また[[劉曄]]にも「武勇は全軍で群を抜く存在である」と評されており<ref>『三国志』魏志「劉曄伝」</ref>、孫権軍都督の周瑜にまで「張・関を従えれば大事業も成せる」と評されるなど<ref>『三国志』呉志「周瑜伝」</ref>、その武勇は曹軍にも孫軍にも高く評価されていた。『三国志』張飛伝では「張飛の勇猛さは関羽に次ぐ」と評されている
 
ただ、張飛は[[士大夫]]と呼ばれる知識人層には紳士的にふるまったものの、身分の低い者、兵卒などは軽視していた。しかも、治める場所では厳罰を適用し、しばしば[[死刑]]にした。それでいて、当り散らしたりなどした当の兵士を側に仕えさせていた。このことを劉備に常々注意されていたが、張飛は改める事が出来ず、ついに死に直結する事態を招くこととなった。
 
三国志を著した[[陳寿]]は、蜀志「関張馬黄趙伝」の張飛伝の最後に張飛と関羽の人物評を併せて載せ、このように括っている。
: 関羽・張飛の二人は、一騎で万の敵に対する武勇があると賞賛され、一世を風靡する剛勇の持ち主であった。関羽は[[顔良]]を切ることで曹操に恩返しを果たして去り、張飛は厳顔の義心に感じ入ってその縄目を解き、両者並んで国士と呼ぶに相応しい気風を備えていた。しかし、関羽は剛毅が行き過ぎて傲慢であり、張飛は乱暴で部下に恩愛をかける配慮が無く、これらの短所が仇となって、敢え無く最期を遂げる事となった。理数とは、こういうものなのだろう(「{{Lang|zh-hant|關羽 張飛皆稱萬人之敵 為世虎臣 羽報效曹公 飛義釋嚴顔 並有國士之風 然羽剛而自矜 飛暴而無恩 以短敢敗 理數之常也}}」『蜀志巻六・関張馬黄趙伝<ref>{{cite wikisource|三國志/卷36#.E5.BC.B5.E9.A3.9B|陳壽|zh|nobullet=yes}}</ref>』)
 
[[陳舜臣]]はこれを、関羽も張飛も、ともに低い身分から士大夫に出世したが、関羽の場合は今や同じ身分となった士大夫に対しての傲慢な振る舞いとなり、張飛の場合は士大夫に出世した事を喜んで同じ身分の者には敬意を払ったが下の者に対して傲慢になるという、正反対の行動になったと解釈している。
 
===張家と劉・夏侯(曹)家===
『[[三国志]]9巻{{Lang|zh-hant|魏書9 諸夏侯曹傳}}<ref>{{cite wikisource|三國志/卷09#.E5.A4.8F.E4.BE.AF.E6.B8.8A|陳壽|zh|nobullet=yes}}</ref>』[[夏侯淵]]伝注の『[[魏略]]』に「{{Lang|zh-hant|初 建安五年 時霸從妹年十三四 在本郡 出行樵採 為張飛所得 飛知其良家女 遂以為妻 產息女 為劉禪皇后}}」と[[建安 (漢)|建安]]5年([[200年]])、夏侯淵の13-14歳の[[いとこ|従妹]]が張飛に捕らわれ妻となったが、その娘[[敬哀皇后]]・[[張皇后 (劉禅)|張皇后]]は二人とも[[劉禅]]の后になっている。魏で[[司馬懿]]による政権掌握の政争が起こったとき、[[夏侯覇]]はその伝手を頼って蜀に亡命してきている。
 
===エピソード===
『三国志』蜀志「劉巴伝」が注に引く『零陵先賢伝』(この文献自体は散逸)によると、[[庶民]](当時の用語では庶人)上がりの張飛が[[士大夫]]の[[劉巴]]の元に泊まった際、劉巴は話もしようとしなかった。さすがにその態度に腹を立て、諸葛亮もまた劉巴と張飛の間を取りなそうとしたが、劉巴は「大丈夫(立派な男)たる者がこの世に生をうけたからには、当然、天下の英傑とこそ交友を結ぶべきです。どうして一兵卒(張飛のこと)と語り合う必要がありましょうか」と言い捨て、ついに張飛とは親交を結ぶことが無かった。士大夫と[[庶民]]との間に、厳然たる[[身分]]差と、それによる[[差別]]があったことが窺える。
 
== 説話における張飛 ==
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若い頃は、戦場では蛮勇を振るうものの戦の後の宴席では酒に任せて暴力を振るった為に、部下達に信頼されていない情景が描かれている。極めつきは、劉備が朝廷の命に従って袁術へ軍勢を出した時、その留守役として下邳(かひ)を守っていた際に起こった事件で、泥酔した隙をつかれ、[[呂布]]とその軍師の[[陳宮]]の計略にひっかかり、部下に反乱され、主君である劉備の妻子を城もろともに奪われ、曹操の下に身一つで転がり込む原因を作っている。
 
呂布滅亡後、曹操と不仲になり徐州に攻め入ってきた曹操部下の[[劉岱 (小沛)|劉岱]]に対し、合戦をする前に張飛軍が兵の士気を上げるために酒盛りをするが、途中で張飛が暴れ部下に暴行し、部下が劉岱の元へ走って逃げ劉岱に張飛軍の内情を渡す。だが、これは張飛の策であった。部下の情報を信用し攻めてきた劉岱軍の裏をかいた攻撃をし、劉岱を捕らえたとあている。
 
[[官渡の戦い]]の後には、山賊にまで成り下がり、劉備のもとに戻ろうと合流を望む関羽を裏切り者呼ばわりして襲いかかるなど、血の気が多く、短慮な所も見せている。
 
劉備が諸葛亮を迎えた時には、劉備が自分と彼を「水と魚のようなもの」([[水魚の交わり]])と例えた事に嫉妬を覚え、後に諸葛亮が采配を振ることになった時には、関羽とともに反発している。しかし、[[博望坡の戦い]]で諸葛亮の采配が見事に的中すると関張らはその鬼謀に心服し、以降信頼を寄せた。[[ホウ統|龐統]]が県令の職を怠けたときも、これに激怒して殺害しようとしたが、見事な仕事ぶりを見せると感心している
 
益州入りの後には、[[張コウ|張郃]]を相手に智謀をめぐらして勝利を得る張飛の成長した姿が描かれている。
 
しかし最後には、義兄弟である関羽を失った事で荒れ狂い、元の乱暴者に戻ってしまい、その結果破滅するという悲劇的な末路を描いた所で、『演義』は「張飛」という人物を締めくくっている。このとき五十五歳と記され、[[167年]]の生まれと設定されていた事がわかる。
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== 脚注 ==
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== 参考資料 ==
*『三国志』
*『三国志演義』
 
==関連項目==