「日本の住宅」の版間の差分

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中世の絵巻物などに庶民の町屋が描かれているが、それを見ると、平屋建、板葺き屋根など非常に簡素なものだったことが伺える。
 
江戸時代に入ると、庶民の住宅も次第に発達していった。大まかに言えば、江戸時代中期までは関西の住宅の方が質が高く、構造や工法が次第に関東にも影響を与えていった。近世初期の関東で一般的な農民の住まいは、[[土間]]に[[囲炉裏]]を作り、床に[[むしろ]]などを敷くようなものも多かった。工法も古代・中世と余り変わらず、[[掘立柱]]を立て、[[茅葺]]で屋根や壁を葺くようなものであった。経済的に向上するに従って、住宅の質も次第に上がり、土間を台所や作業場などに使い、床を造り食事や就寝に使う部屋が造られていった。高い技能を持った職人が関与するようになり、工法も[[礎石]]の上に柱を据え、[[梁 (建築)|梁]]を複雑に組み合わせて造るように変わった。ただし、[[土壁]]や茅葺屋根は家族や集落の仲間と共同で造ることも多かった。江戸時代を通じて[[掘立柱建物]]が次第に廃れていき、江戸時代後期には庶民の民家も礎石建物が主流となった。江戸時代後期以降になると「田の字型」の間取りが広く普及していったが、この[[間取り]]は結婚や葬儀など人が多く集まる行事に使うことを意識したもので、用途に合わせて[[襖]]を開け閉めして用いた。今日、伝統的な民家として民家園などに保存されているものには、「田の字型」のタイプが多く見られる。
江戸時代に入ると、庶民の住宅も次第に発達していった。大まかに言えば、関西の住宅の方が質が高く、構造や工法が次第に関東にも影響を与えていった。
 
近世初期の関東で一般的な農民の住まいは、[[土間]]に[[囲炉裏]]を作り、床に[[むしろ]]などを敷くようなものも多かった。工法も古代・中世と余り変わらず、[[掘立柱]]を立て、[[茅葺]]で屋根や壁を葺くようなものであった。経済的に向上するに従って、住宅の質も次第に上がり、土間を台所や作業場などに使い、床を造り食事や就寝に使う部屋が造られていった。高い技能を持った職人が関与するようになり、工法も[[礎石]]の上に柱を据え、[[梁 (建築)|梁]]を複雑に組み合わせて造るように変わった。ただし、[[土壁]]や茅葺屋根は家族や集落の仲間と共同で造ることも多かった。江戸時代後期以降になると「田の字型」の間取りが広く普及していったが、この[[間取り]]は結婚や葬儀など人が多く集まる行事に使うことを意識したもので、用途に合わせて[[襖]]を開け閉めして用いた。今日、伝統的な民家として民家園などに保存されているものには、「田の字型」のタイプが多く見られる。
 
江戸時代には住宅にも身分による統制が行われていた。例えば武士や名主クラスの農家では、[[床の間]]などを造ることが許されたが、庶民が床の間を造ることや[[瓦葺]]屋根にすることなどは贅沢だとして禁止されることが一般的だった。(ただし、防火のため瓦葺屋根を奨励されたり、義務付けられた町もある)