「平和相互銀行」の版間の差分

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その後「住友残酷物語」と呼ばれる旧平和相互銀行行員の大[[粛清]]が行われ、合併から半年でほぼ全行員がいなくなったと言われているが、実際には合併半年後も旧平和相互銀行出身者は多数在籍している。<ref>元[[産経新聞]]記者の[[近藤弘]]は著書『住友銀行-7人の頭取』(1988年初版、日本実業出版社)の中で、このたびたび語られる「住友残酷物語」に関しては東京系都銀が流布した虚構であるとしている。同じように、「住友残酷物語」によって"行員が大粛清された"とされる旧[[河内銀行]](1965年4月合併)の吸収合併を検証し、「合併当時の河内銀行行員は301人、1988年時点で約半数の165人が在籍し、現職含め支店長経験者は35人いる(平均年間離職率は過去23年間で2%弱となる)」と論じている。なお、本書の初版時期である1988年の時点(合併から約3年後)では旧平相銀行員の減少率について触れていないが、住銀店舗の支店長に抜擢された2人の旧平相銀行員の活躍ぶりを取材している。</ref><ref>[[フリージャーナリスト]][[田澤拓也]]の著書『住友銀行人事第2部 旧平和相互銀行員25人の証言と軌跡』(1991年初版、アイペックプレス)によれば、住友銀行に在籍している旧平和相互銀行行員は、合併時3300名、本書執筆時で2100名と明記している。退職者のうち、8割近くが女性行員との事である。</ref>
 
関西系の住友銀行にとって、平和相銀の吸収合併は首都圏店舗を一挙に増やし大きなメリットがあるとされた。東京の[[ベッドタウン]]である[[埼玉県]]には[[志木市|志木]]支店(現:新座志木支店)しか出店しておらず、県庁所在地の[[浦和市|浦和]]・[[大宮市|大宮]](旧さくら銀行側に統合済み)など埼玉県内の拠点はほぼ平相銀の店舗であった旧本店は1990年代まで「住友銀行第二東京営業部」として存置され、吸収後の店番は「平和相銀時代の番号+800」となり、従来からの住友店とは隔てられた800・900番台に区別され、三井住友銀行発足後も継承された。
 
しかし、合併により平相銀の不良債権も抱え込むことになり、低下した収益力回復を目指してがむしゃらな営業路線をひた走る。この合併で、預金量順位を逆転された[[富士銀行]]も巻き返しを図り、熾烈な「FS戦争」が展開される中[[バブル経済]]に突入する。