「山城国一揆」の版間の差分

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[[応仁の乱]]が終結した後も各地で守護大名同士の小競り合いは続いた。南山城でも例外ではなく、畠山氏は跡目争いから[[畠山義就]]と[[畠山政長]]が争いを続けていた。本来、山城には名目上の守護しか置かれていなかったものの、文明10年([[1478年]])の畠山政長の任命後は本格的な領国化を目指す動きが盛んになっていた。その中で繰り広げられた両畠山氏の長年にわたる戦いで国人衆や農民は疲弊し、山城国一揆の土壌が整った。
 
文明17年(1485年)、南山城の国人衆や農民らが[[宇治市|宇治]]の[[平等院]]に集まり評定を持った。この評定で「国中掟法」を取り決め、両畠山氏の影響を排除し、南山城の自治を行うことを決めた。「三十六人衆」と呼ばれる指導的な国人衆により政治がおこなわれ、南山城は惣国とよばれる政治形態となった。
 
=== 幕府との関係 ===
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==参考文献==
*[[山田康弘 (歴史学者)|山田康弘]]「山城国衆弾圧事件とその背景」(所収:『戦国期室町幕府と将軍』([[吉川弘文館]]、2000年) ISBN 978-4-642-02797-7 第二章)
 
== 関連項目 ==
*[[日本史の出来事一覧]]
*[[月行事]]
 
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