「劉文竜」の版間の差分

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| 画像=
| 画像の説明=
| 出生=[[1870年]]([[清]][[同治]]9年)
| 死去=[[1950年]]<br>[[File:Flag of the People's Republic of China.svg|20px]] [[中華人民共和国]][[新疆省]][[ウルムチ市]]
| 出身地={{QIN1890}}[[湖南省]][[岳陽市|岳陽県]]
| 職業=政治家
| 簡体字={{lang|zh-hans|刘文龙}}
| 繁体字={{lang|zh-hant|劉文龍}}
| ピン音={{lang|zh-hant|Liú Wénlóng}}
| 注音=
| 和名=りゅう ぶんりゅう
| 発音=リウ ウェンロン
| ラテン字=Liu Wen-lung
}}
 
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[[清]]の廩生。[[宣統]]年間に辺境での開墾を望み、[[新疆省]]に赴任した。搭城(現在の[[チョチェク市]])参賛大臣[[汪歩端]]の下で任官している。[[中華民国]]時代になると、汪は搭城道尹に任ぜられ、劉もその下で事務に携わった。
 
[[1917年]]([[中華民国紀元|民国]]6年)、劉文竜は、革命派に敗北して越境してくる[[ロシア]]皇帝派の軍勢について、事後処理を担当した。[[1922年]](民国11年)3月、新疆省教育庁庁長に任命される。
 
[[1928年]](民国17年)11月、新疆省政府主席[[楊増新]]が暗殺され、[[金樹仁]]が後任となる。このときに劉文竜は、新疆省政府副主席兼教育庁庁長に任命された。[[1933年]](民国22年)4月、クーデターの発生により金は[[ソビエト連邦|ソ連]]へ逃亡する。劉は、臨時代理として省政府主席の地位に就いた。その後、南京の[[国民政府]]が宣慰使として[[黄慕松]]を派遣してきた。黄の指示により、8月、劉が正式に省政府主席となり、省内の軍事実力者である[[盛世才]]は辺防督弁に任ぜられた。
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== 参考文献 ==
* <span style="font-size:90%;">{{Cite book|和書|author = 徐友春主編|title = 民国人物大辞典 増訂版|year = 2007|publisher = 河北人民出版社|isbn = 978-7-202-0314003014-1}}</span>
* <span style="font-size:90%;">{{Cite book|和書|author = 劉寿林ほか編|title = 民国職官年表|year = 1995|publisher = [[中華書局]]|isbn = 7-101-01320-1}}</span>
 
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! {{CHN1928}}([[国民政府]])
{{先代次代|[[新疆省]]政府主席|<small>[[1933年]]8月 - [[1934年]]10月</small>|[[金樹仁]]|[[李溶]]}}
|-
|}