「西尾吉次」の版間の差分

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| 死没 = [[慶長]]11年[[8月26日 (旧暦)|8月26日]]([[1606年]][[9月28日]])
| 改名 =
| 別名 = 義次
| 諡号 =
| 戒名 = 淨徳院天翁梵長大居士
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== 生涯 ==
享禄3年(1530年)、[[三河国]]東条城主[[吉良持広]]の子として生まれる。初名は'''義次'''。持広は[[松平清康]]の妹を妻に仕え勢力維持をはかったが、[[天文 (元号)|天文]]4年([[1535年]])清康が世にいう[[森山崩れ]]で死去。三河は今川氏と織田氏の勢力の狭間となり、苦境に立たされた東吉良、西吉良の両家は反目しあっていたが和睦。義次は幼少の為、東吉良家には、西条[[吉良義堯]]の子[[吉良義安|義安]]が養子として迎えられた。義次は[[織田信長]]への人質として送られ、[[桶狭間の戦い]]を経て、織田信長に仕えることとなる。信長織田家仕官時代は[[安土城]]築城の石奉行、対武田戦に備えての徳川氏への兵糧搬入や、検使役を務め、[[長篠の戦い]]にも参加している。
 
[[天正]]10年([[1582年]])、[[徳川家康]]の饗応役を命じられ、[[本能寺の変]]が起こるとこのことを急報し、護衛をして[[伊賀越え]]を決行、徳川家康を無事に送り届け、そのまま家康の家臣になった。この功により天正14年([[1586年]])、羽柴秀吉(ちの[[豊臣秀吉]])より「吉」の字の偏諱を賜り、「受けて'''吉次'''と改名した。天正18年([[1590年]])、徳川家康の関東移封にともない[[武蔵国]]足立郡原市に5000石の所領を与えられ、慶長4年(1599年)に従五位下隠岐守に叙任された。[[関ヶ原の戦い]]で旗本備として功をたて、1602年に美濃国内で7000石加増され、[[原市藩]]を立藩する。慶長11年(1606年)[[伏見]]で死去、娘婿の忠永が家督を継いだ。享年77。
 
吉次の再興した菩提寺妙厳寺には織田信長より拝領した永楽通宝紋鞍と鐙があり、平成10年(1998年)に埼玉県指定文化財に指定されている。『新編武蔵風土記稿』には、「吉次ゆかりの品」との記載があり、長い間所在不明になっていたが、昭和60年(1985年)に寺の薬師堂解体の際、その床下から発見された。
 
{{原市藩主|初代|1602 - 1606}}
 
{{DEFAULTSORT:にしお よしつく}}
[[Category:吉良氏|よしつく]]
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