「長谷川宗仁」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
30行目:
[[天正]]元年([[1573年]])6月18日、下京で銀子や米の徴収を行っているが、この時は信長の家臣たちに混じって活動しており<ref>『朝河文書』</ref>、この頃よりこうした京での奉行活動を経て次第に信長の家臣化していったものと見られる。同年8月24日、信長の命により[[朝倉義景]]の首級を京へと送り、[[獄門]]にかけた<ref name="kouki">『[[信長公記]]』</ref>。天正6年([[1578年]])元旦に信長が家臣12名を呼び主催した茶会の中に[[織田信忠]]・[[細川藤孝]]・[[明智光秀]]・[[羽柴秀吉]]・[[丹羽長秀]]ら織田家の要人と共に名を連ねた。また、1月4日に[[万見重元]]邸で行われた名物茶器の披露会の参加者9人の中にも宗仁の名前が見える<ref name="kouki"/>。
 
天正10年([[1582年]])3月の[[武田征伐]]には信長側近として同行。戦後、[[武田勝頼]]・[[武田信勝]]・[[武田信豊 (甲斐武田氏)|武田信豊]]・[[仁科盛信]]の首級を京で獄門にかけるように命じられ<ref name="kouki"/>、[[一条通]]の辻に四名の首級を晒した。同年6月2日に[[本能寺の変]]で信長が横死すると、宗仁は即座に[[備中国|備中]]に布陣していた羽柴秀吉に飛脚を送り、信長の死を報じた<ref>『太閤記』・『黒田家譜』など</ref>。[[山崎の戦い]]で秀吉が勝利すると秀吉に仕える。
 
=== 秀吉政権での事績 ===