「水島の変」の版間の差分

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'''水島の変'''(みずしまのへん)は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]末期の[[永和 (日本)|永和]]元年/[[天授 (日本)|天授]]元年[[8月26日 (旧暦)|8月26日]]([[1375年]][[9月22日]])に、[[九州探題]][[今川貞世|今川了俊]]が、[[筑前国|筑前]][[守護]][[少弐冬資]]を[[肥後国|肥後]][[菊池郡]]水島(現在の[[熊本県]][[菊池市]])で[[暗殺]]した事件。
 
[[応安]]4年/[[建徳 (日本)|建徳]]2年([[1371年]])に、[[室町幕府]]初代[[征夷大将軍|将軍]][[足利尊氏]]から九州探題として派遣された今川了俊の目覚しい働きによって翌年には[[南朝 (日本)|南朝]]の[[懐良親王]]・[[菊池武光]]が拠点としていた[[大宰府]]を陥落させて自己の根拠とし、更に菊池武光・[[菊池武政|武政]]父子の死に乗じて南朝方の新本拠地となった[[筑後国|筑後]][[高良山]]を陥落させた。これに対して[[鎌倉幕府]]以来筑前を支配をしていた[[北朝 (日本)|北朝]]方の[[少弐氏]]は筑前の支配権を了俊に奪われることを危惧、了俊に対して次第に非協力的な態度を取るようになり、了俊も筑前を九州探題の直轄にすべく少弐氏を抑圧する方針を採り始めた。
 
永和元年/天授元年に入ると、了俊は[[菊池氏]]の本拠である肥後侵攻を本格化させて[[7月12日 (旧暦)|7月12日]]に水島に兵を進めた。その際、九州の3名の有力守護である[[薩摩大隅|大隅]]守護[[島津氏久]]・[[豊後国|豊後]]守護[[大友親世]]、そして筑前守護少弐冬資を肥後水島の了俊の元に召集した。だが、少弐冬資は参陣を拒んだ。このため、了俊は島津氏久に少弐冬資の来陣を促させた。両者の対立を憂慮する氏久の説得によって冬資は水島に漸く参上したものの、了俊は歓迎の宴と称して冬資を自陣に召集して謀殺したのであった。面目を潰された島津氏久は帰国して了俊と絶縁し、これを見た大友親世も中立的な態度に転じた。これを見た菊池軍の反撃を受けて[[9月8日 (旧暦)|9月8日]]には了俊は水島からの撤退を余儀なくされるも、開き直った了俊は自ら筑前守護の兼務を宣言、後に冬資の甥の[[少弐貞頼|貞頼]]に守護職を譲ったものの、筑前の実権を掌握したのである
これに対して[[鎌倉幕府]]以来筑前を支配をしていた[[北朝 (日本)|北朝]]方の[[少弐氏]]は筑前の支配権を了俊に奪われることを危惧して了俊に対して次第に非協力的な態度を取るようになり、了俊も筑前を九州探題の直轄にすべく少弐氏を抑圧する方針を採り始めた。
 
この事件によって[[島津氏]]・[[大友氏]]は離反し、これを見た九州の南朝側が一斉に蜂起することになる。だが、了俊は北九州における自己の権力基盤を固めることに成功して、以後積極的な九州経営を展開する。だが、[[高麗]]の国使である[[儒学者]]の[[鄭夢周]]に独自に会談をもって外交交渉を行うなど、[[日明貿易]]などの外交権を独占を目指す3代将軍[[足利義満]]の方針と対立し、後日の失脚の遠因ともなった。
永和元年/天授元年に入ると、了俊は[[菊池氏]]の本拠である肥後侵攻を本格化させて[[7月12日 (旧暦)|7月12日]]に水島に兵を進めた。その際、九州の3名の有力守護である[[薩摩国]][[島津氏久]]・[[豊後国]][[大友親世]]、そして筑前国少弐冬資を肥後水島の了俊の元に召集した。だが、少弐冬資は参陣を拒んだ。このため、了俊は島津氏久に少弐冬資の来陣を促させた。両者の対立を憂慮する氏久の説得によって冬資は水島に漸く参上したものの、了俊は歓迎の宴と称して冬資を自陣に召集して謀殺したのであった。面目を潰された島津氏久は帰国して了俊と絶縁し、これを見た大友親世も中立的な態度に転じた。これを見た菊池軍の反撃を受けて[[9月8日 (旧暦)|9月8日]]には了俊は水島からの撤退を余儀なくされるも、開き直った了俊は自ら筑前守護の兼務を宣言、後に反冬資派の[[少弐貞頼]]に守護職を譲ったものの、筑前の実権を掌握したのである。
 
この事件によって[[島津氏]]・[[大友氏]]は離反し、これを見た九州の南朝側が一斉に蜂起することになる。だが、了俊は北九州における自己の権力基盤を固めることに成功して、以後積極的な九州経営を展開する。だが、[[高麗]]の国使である[[儒学者]]の[[鄭夢周]]に独自に会談をもって外交交渉を行うなど、[[日明貿易]]などの外交権を独占を目指す足利義満の方針と対立し、後日の失脚の遠因ともなった。
 
== 参考文献 ==