「アウグスト3世 (ポーランド王)」の版間の差分

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[[1740年]]、カール6世の死去によって[[ハプスブルク家]]の男子が絶えると、[[マリア・テレジア]]の家督相続を巡って[[オーストリア継承戦争]]が勃発した。アウグスト3世はカール6世の兄[[ヨーゼフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ヨーゼフ1世]]の娘[[マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ (1699-1757)|マリア・ヨーゼファ]]を妃としていたため、マリア・テレジアの支持を表明しながらも、ハプスブルク家領であったベーメン([[ボヘミア]])の継承を主張してベーメンに侵攻した。しかし結局、和平交渉の後に撤退を余儀なくされた。その後、ハプスブルク家領であった[[シレジア|シュレージエン]]の領有を巡る[[プロイセン国王|プロイセン王]][[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]の進撃を阻止するため、ザクセン軍を率いてオーストリア軍と共にプロイセン軍と戦ったが敗北し、アウグスト3世にとっての戦争は終結した。
 
アウグスト3世の晩年、[[1756年]]に[[七年戦争]]が勃発するが、ザクセンにもポーランドにも、もはやこれに対抗しうる国力はなかった。ザクセンは真っ先にプロイセンに占領され、アウグスト3世は宮廷をポーランドに避難させた<ref name="arisaka">{{cite journal|和書|author=[[有坂純]]|year=2004|month=4|title=フリードリヒ大王の七年戦争|journal=歴史群像|pages=p. 70|publisher=[[学習研究社]] }}</ref>。またポーランドは、プロイセンへ進撃するロシア軍の通り道にしかならなかった。ザクセンは帝国領であるが故に致命的な損失を免れたが、ポーランドでは国力の低下や王権の一層の弱体化、国家主権の衰退などを露呈させる結果となった。 
 
1763年10月、アウグスト3世は死去した。息子[[フリードリヒ・クリスティアン (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ・クリスティアン]]がザクセン選帝侯を継承するも、同年12月に急死した。これにより、[[アルベルティン家|アルブレヒト系]][[ヴェッティン家]]はポーランド王位を失った(後に孫でフリードリヒ・クリスティアンの子、[[ザクセン君主一覧|ザクセン王]][[フリードリヒ・アウグスト1世 (ザクセン王)|フリードリヒ・アウグスト1世]]が[[ワルシャワ公国|ワルシャワ公]]に擁立される)。翌[[1764年]]、ロシア女帝[[エカチェリーナ2世]]の圧力により、[[スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ|スタニスワフ2世]]がポーランド王に即位した。この王を最後として、[[ポーランド分割]]によってポーランド王国は消滅した。
*[[クレメンス・ヴェンツェスラウス・フォン・ザクセン|クレメンス・ヴェンツェスラウス]](1739年 - 1812年)…[[トリーア大司教]]
*[[マリア・クニグンデ・フォン・ザクセン|マリア・クニグンデ]](1740年 - 1826年)…[[トルン]]および[[エッセン]]の女子修道院長
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
==関連項目==
{{commons cat|August III the Saxon}}
*[[ポーランド継承戦争]]
*[[オーストリア継承戦争]]
*[[七年戦争]]
*[[ハインリヒ・フォン・ブリュール]]
 
{{先代次代|[[ザクセン君主一覧|ザクセン選帝侯]]|1733年 - 1763年|[[アウグスト2世 (ポーランド王)|フリードリヒ・アウグスト1世]]|[[フリードリヒ・クリスティアン (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ・クリスティアン]]}}
{{先代次代|[[ポーランド国王|ポーランド王]]<br>[[リトアニアの統治者の一覧|リトアニア大公]]|1734年 - 1763年|[[スタニスワフ・レシチニスキ]]|[[スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ]]}}
{{ポーランド君主一覧}}
 
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[[Category:ザクセン選帝侯]]
[[Category:ポーランド国王]]