「ルターシュタット・ヴィッテンベルク」の版間の差分

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== 歴史 ==
すでに1000年前後にこの地域に関する記録があるが、ヴィッテンベルクという名称が確認できるのは[[1187年]]の教会に関する文書である。その後の発展は、ザクセン公[[アスカーニエン家]]に影響され、ヴィッテンベルクは、[[1260年]]に死亡した[[アルブレヒト1世 (ザクセン公)|アルブレヒト1世]]の分割された遺領のうち、[[ザクセン=ヴィッテンベルク]]を治めたアルブレヒト2世の宮廷都市となった。ザクセン公が持つ[[選帝侯]]の地位を巡り、もう一方の遺領[[ザクセン=ラウエンブルク]]と対立したが、[[1356年]]に[[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]の金印勅書で、ザクセン=ヴィッテンベルク公に選帝侯の資格が与えられた。しかし、[[1422年]]にアルブレヒト3世の死でアスカーニエン家が途絶えると、[[ヴェッティン家]]がザクセン選帝侯となり、ヴィッテンベルクも選帝侯都市の地位を失った。
 
ヴェッティン家では、[[フリードリヒ2世 (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ2世]]の死後、遺領が[[エルンスト_(ザクセン選帝侯)|エルンスト]]と[[アルブレヒト3世 (ザクセン公)|アルブレヒト]]に分けられた。選帝侯となったエルンストの死後、選帝侯を継いだ長男[[フリードリヒ3世 (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ3世]]がヴィッテンベルクに宮廷を置いたことでヴィッテンベルクは発展した。宮廷画家として、ドイツ・[[ルネサンス]]の代表的な画家[[ルーカス・クラナッハ]]が工房を構え、[[1502年]]には[[マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク|ヴィッテンベルク大学]]も創設された。その後、[[1547年]]にエルネスティン家が選帝侯の地位を取りあげられた結果、ヴィッテンベルクは再びザクセン選帝侯宮廷都市の座を失っている。
 
[[1517年]]、ヴィッテンベルク大学教授のマルティン・ルターが大学内の聖堂の扉に『[[95ヶ条の論題]]』を提示したことが宗教改革の口火を切ることになった。[[1518年]]には、同大学の[[ギリシア語]]教授として[[フィリップ・メランヒトン]]も招かれ、以降のヴィッテンベルクは[[宗教改革]]における重要な根拠地となった。