「カール・ツァイス」の版間の差分

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=== カール・ツァイス社の誕生~発展 ===
[[ファイル:Microscope Zeiss 1879.jpg|thumb|right|ツァイスの顕微鏡]]
'''[[カール・フリードリヒ・ツァイス]]'''は[[1846年]][[イェーナ]]に[[顕微鏡]]製造のための工房を開設し、イェーナ大学の[[植物学]]者で[[細胞説]]で有名な[[マティアス・ヤコブ・シュライデン]]の助言と激励を受けつつ顕微鏡など大学の研究室で使われる光学機器を製作し、高い評価を受けるようになった。イェーナ大学の講師[[エルンスト・アッベ]]と学術実験用の機器製作を通じて知り合い、共同で光学機器の性能向上技術を開発した。[[1884年]]頃からは[[フリードリッヒ・オットー・ショット]]がガラス工学技術を提供することとなり、良質の[[ガラス]]を[[レンズ]]の材料とすることによって世界最高水準の光学機器会社としてさらに発展することとなった。また[[1923年]][[8月]]カール・ツァイスの技師ヴァルター・バウアースフェルト(''Walther Bauersfeld'' )は世界初の近代的[[プラネタリウム]]「ツァイス1型」を製造した<ref>1923年10月21日に[[ドイツ博物館]]にて公開され、現在も展示されている。</ref>。
 
=== カール・ツァイス財団の誕生 ===
'''カール・ツァイス財団'''は'''カール・フリードリヒ・ツァイス'''の死後、[[1889年]]に近代光学理論の大家でありツァイスの協力者であった[[エルンスト・アッベ]]によって設立された。アッベの理念は
#資本家による搾取のない組織
#技術開発によって不断に人類の福祉に貢献する
さらにアッベは定款によって財団傘下の企業の経営方針を「人類の福祉に貢献する」と規定し、それに沿った経営を行った。8時間労働制、時間外勤務手当、年次有給休暇、年金制度などを世界に先駆けて整備し、労働者の待遇改善に努めた。また、技術的に価値の高い新規の発明については特許を取ることを禁じ、進んで公開するものとした<ref>ただしこの方針は他社に特許を取得されてしまうために技術公開の目的が達成されず、やむを得ず特許を取得して公開する方針に切り替えられた。</ref>。他社が経営上の理由から二の足を踏む分野に対しても財団傘下の企業が積極的な技術開発を行い得たのは上記のような財団の経営方針によるものである。高度な技術開発を行うために傘下の企業は技術的研鑽を積まざるを得ず、結果として世界最高水準の技術力を現在に至るまで持ち続けることができた。
 
ツァイス財団の「人類の福祉に貢献する」という社是は、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]が台頭してくると「[[マルクス主義]]的」と見なされ、経営に容喙される原因になったといわれている。
 
[[第二次世界大戦]]後のドイツ東西分割によって財団も分裂したが、[[ドイツ再統一|ドイツ統合]]後にひとつに戻り、現在も傘下の企業ともども健在である。財団傘下の企業としてはカール・ツァイス社や[[ツァイス・イコン]]社、[[ショット (ガラス製造業)|ショット・ガラス]]社(''Schott Glas'' )などを代表として数多い。
 
サッカークラブの[[FCカールツァイス・イェーナ]]は[[1903年]]に創設され、[[東ドイツ]](DDR)時代には国を代表する強豪チームであった。2009-2010シーズン現在、[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]3部に所属している。
 
=== 東西分断の悲劇 ===
[[20世紀]]初頭から[[第二次世界大戦]]までの期間、カール・ツァイスは世界の最先端を走る光学機器会社として君臨した。しかし、第二次世界大戦におけるドイツ敗戦の影響は、カール・ツァイスにおいても多大な影響を及ぼした。
 
第二次世界大戦の敗戦直後、ドイツの東西分断により、ドイツ東部にあったイェーナは[[ビエト邦|ソ連]]占領統治下に置かれる。しかし[[アメリカ軍]]はカール・ツァイスの光学技術をソ連にそのまま渡すことを阻止するためソ連軍に先んじてイェーナに入り、技術者の多くを半ば強制的に[[オーバーコッヘン]]に移動させ、ツァイス・オプトン社として光学機器の生産を引き継いだ。一方ソ連軍はイェーナの工場群を接収、残った技術者もソ連に送った。これによってカール・ツァイスは東西に分裂した。東側はイェーナに半官半民の「人民公社カール・ツァイス・イェーナ」を設立、このイェーナのカール・ツァイス社は東ドイツの誇る光学機器メーカーとして存続した。その後どちらがツァイスの名や[[コンタックス]]等商標の権利を持つか裁判で長年にわたって争うこととなる。
[[ファイル:Logo FC Carl Zeiss Jena.png|thumb|right|FCカール・ツァイス・イェーナのロゴ]]
 
=== 東西統一~その後 ===
1989~1990[[1989]]~[[1990年]]に渡って行われた[[ドイツ再統一|ドイツ東西統一]](ユニフィケーション)により、東西に分かれていたカール・ツァイスも統合の道を歩むことになる。イェーナにあったツァイスは経営に行き詰まっており、実質的にオーバーコッヘンのツァイスが吸収する形となった。現在もカール・ツァイス本社はオーバーコッヘンに置かれている。
 
近年では[[オランダ]]の[[半導体露光機]]([[ステッパー]])を製造している[[ASML]]社に光学系を独占的に供給している。
 
また、光学系に[[光ファイバー]]を用いたプラネタリウム投影機の生産も行っている。
 
== 財団傘下の企業 ==
*カール・ツァイス - 天体望遠鏡や顕微鏡、眼鏡、光学照準器などを製造。
*[[ツァイス・イコン]] - ドイツの主要なカメラメーカーの大同団結的合併により誕生し、カール・ツァイス財団の傘下で[[イコンタ]]、[[イコフレックス]]、[[コンタックス]]、[[コンタレックス]]等のカメラを開発製造した。
*[[ショット (ガラス製造業)|ショット]] - 光学ガラス、医療・理化学用ガラス、その他特殊ガラス材料、およびそれらを用いた製品の開発、製造、販売。
など他にも多数。
 
**[[ボックステンゴール]]
**[[コンタフレックス]]
**[[コンタレックス]]
**[[コンタックス]]
**[[イカレックス]]
**[[イコフレックス]]
**[[イコンタ]]
*[[カール・ツァイスの天体望遠鏡製品一覧]]
この他艦砲用[[レンジファインダー|光学測距儀]]、[[潜水艦]]の[[潜望鏡]]、銃器用の照準器など軍用の光学機器も作っている。
*[[ロベルト・コッホ]] - [[1876年]]、カール・ツァイス製の顕微鏡を使って[[炭疽]]菌を発見。[[細菌]]が[[感染症]]の[[病原体]]であることを証明した。
*現在世界最大の映画用[[レンズメーカー]]である。([[映画用カメラ]]の最大手であるドイツの[[アーノルド&リヒター]]との提携)
*[[東郷平八郎]] - 5倍と10倍兼用の双眼鏡が発売されて間もない{{和暦|1904年(明治37年)}}、小西本店(現[[コニカミノルタホールディングス]])が輸入したものを購入愛用し、[[日本海海戦]]でも[[戦艦]][[三笠 (戦艦)|三笠]]艦上で敵の沈没状況や降伏信号の確認等に使用した。
*[[旭川市科学館 サイパル]] - [[2005年]]の移転新築に合わせ、プラネタリウムに「ZMPスターマスター」を導入している。移転前もカール・ツァイス製の投影機「ツァイス・イエナZKP-1型」を使用していた。
*[[名古屋市科学館]] - [[1962年]]の開館時、プラネタリウムに当時カール・ツァイスの最新型であった「カール・ツァイス4型」を導入、使用されてきたが、[[2010年]]8月末に投影を終了し、[[2011年]][[3月]]から新たなプラネタリウム(愛称brother earthブラザーアース)の開館により「ユニバーサリウム9型」(''type UNIVERSARIUM Model IX'' )を採用した。しかし、オープン直前にしての故障により初日の投影が不能となり、その後は回数を減らしてスタートした。現在は、予定通りの回数で運営されている。
*[[京都大学]] - [[京都大学大学院理学研究科附属飛騨天文台|飛騨天文台]][[1972年]]65cm屈折望遠鏡、[[1979年]]60cmグレゴリー式反射望遠鏡<ref>ドームレス型真空式塔太陽望遠鏡。</ref>を導入している。
*[[明石市立天文科学館]] - [[1960年]]の開館時、プラネタリウムに「ツァイス・イエナユニバーサル23/3型」を導入し、現在も使用されている。なお、現在稼動しているプラネタリウム投影機の中では、[[日本]]で一番古いものである。
 
== 脚注 ==
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