「ヴェネツィアン・グラス」の版間の差分

 
==歴史==
ヴェネツィアン・グラス発祥は、[[13世紀]]中世[[ヴェネツィア共和国]]が東方諸国のすぐれた産物を[[ヨーロッパ]]諸国に独自供給し[[東西貿易]]の中心地となる中で、その中でも最も珍重されていたガラス製品を自国で生産すれば多大な利益を得ることが出来ると考えガラス製造に乗り出したことに始まる、とする見解もある。しかしトルチェッロ島からは[[7世紀]]ないし[[8世紀]]のガラス[[工房]]跡やガラスが発見されているし、文献上も[[10世紀]]末にはガラス製造のことが登場する。ヴェネツィアン・グラスの正確な起源は謎に包まれている。
ヴェネツィア共和国は当時最も進んだ技術を持っていた[[アンティオキア]]と協定を結び、原料や燃料さらにはガラス職人までをもヴェネツィアに移した。これにより[[ローマ帝国]]-[[イスラム]]時代から発展してきたガラス技術を取り入れ、応用することでヴェネツィアン・グラスの技術は発展を遂げていった。
 
しかし元々原材料や燃料を自国で産出できない土地柄であるヴェネツィア共和国は、ヴェネツィアン・グラスの技術が原材料の豊富な国々に漏れコピー製品が作られることを恐れたため強力な保護政策を取った。
[[1291年]]には全てのグラス[[工房]]の[[ムラーノ島]]への強制移住を決定。グラス職人やその家族・販売者を島に住まわせ、島外に逃げる者は厳しく罰し功績を挙げたものには手厚い褒章を与えるという法令を発令した。この政策には、火事を防ぐためという名目もあった。
これにより狭い島の中に工房が密集したため技術の切磋琢磨が進みグラステーブルや[[シャンデリア]]、[[鏡]]など様々な名品が作られた。
 
一方でこのような厳しい保護政策の下でも逃げ出す職人はおり各地に散らばりガラス技術を伝えた。このような職人達の教えにより他の地方で作られたヴェネツィア様式のグラスをファソン・ド・ヴニーズ({{lang-fr|façon de Venise}})と呼ぶ。
 
[[ルネサンス]]期の[[15世紀]]~[[16世紀]]にはその繁栄は頂点に達した。
[[ヴェルサイユ宮殿]]の「鏡の間」はムラーノ島から連れ出された12人の職人が作成したと言われている。
この時代に一番力を注いだ技法が[[エナメル]]装飾で、[[貴族]]達は華麗な絵付けの施されたガラス製品を競うように買い求め、エナメル絵付けの施されたガラス製品を持つことがひとつの社会的ステータスとなった。
またこの時代にソーダガラスに消色剤を加え透明度の高い無色透明のガラス(クリスタッロ)の製法が確立された。これは他国には無い技術であり、王侯貴族の間で高く取引された。成形前のガラスをガラス塊を冷却水につけて模様を生じさせるアイス・ガラス(ア・ギアッチョ)もこの時期に開発された。レース・ガラスの発明もこの頃で、以降のヴェネツィアン・グラスの代表的な装飾技法となった。ただし、この時期はガラス職人が法の網の目をかいくぐって海外に流出した時期でもある。これによってヴェネツィアングラスの技法と様式が海外に広められたとも言える。
 
[[17世紀]][[18世紀]]には、ヴェネツィア風のガラス製品がヨーロッパ中で大流行した。
現在でもムラーノ島では多くの工房が軒を連ね、豊かな伝統技術を親から子へと受け継いでいる。
 
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