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このコムブルク=ローテンブルク伯が断絶する[[1108年]]までには、皇帝の城が築かれていた。この伯家の最後の当主となったハインリヒ・フォン・ローテンブルクは、城をコムブルク[[修道院]]に遺贈した。
 
しかし、[[神聖ローマ皇帝|皇帝]][[ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ5世]]は、この遺贈を認めず、甥の[[コンラート3世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート・フォン・ホーエンシュタウフェン]]に[[レーエン]]としてこの所領を与えた。コンラートは[[1137年]]に[[ドイツ王]](在位[[1138年]]-52)[[1352年]])に即位してコンラート3世となると、[[1142年]]にローテンブルクに帝国の城を築き、ここに宮廷を置いた。しかしローテンブルクの宮殿において政務を執った国王はコンラート3世のみである。
 
彼の息子の[[フリードリヒ4世 (シュヴァーベン大公)|フリードリヒ・フォン・ローテンブルク]]は、父親が亡くなったときはまだ成人前であったため、従兄弟の[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]の後見下に置かれ、[[1157年]]に「ローテンブルク公」という称号で[[刀礼]]を受けた。フリードリヒ1世により、フリードリヒ・フォン・ローテンブルクには[[エーガーラント]]地方も与えられた。フリードリヒは[[1167年]]に亡くなり、彼の兄も早逝していたため、ローテンブルクの城は意味を失った。
 
[[1170年]]にローテンブルク市が設置された。当時の町の中心は市場とヤコブ教会であった。この当時から街の要塞化が始まったとみられる。その時代の遺物として、古い地下室・古い堀や牛乳市場などを見る事が出来る。[[13世紀]]になると、塔や城壁が造られた。その中で現在まで残っているものはレーダー・アーチとマルクス塔である。
 
[[1194年]]から[[1254年]]まで、[[ホーエンシュタウフェン朝]]の代官がローテンブルク周辺の地域を支配した。この頃、聖ジョン修道会やその他の修道会がヤコブ教会や[[ドミニコ会]]の修道院の近くに設置された。
 
[[1274年]]にローテンブルクは[[ハプスブルク家]]の[[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]から[[帝国自由都市|帝国都市]]の特権を与えられた。市内には三つの有名な市場が出来、その後の数世紀にわたり街は発展した。市内の住民と郊外の騎士らは[[フランシスコ会]]の修道院と聖霊病院を設置した(1376([[1376]] - [[1378年]]に市の防壁に組み込まれた)。[[ドイツ騎士団]]は[[1311年]]に聖ヤコブ教会の建設をはじめ、[[1336年]]から市民が使えるようになった(完成は[[1485年]])。聖ヤコブ教会には、[[十字軍]]遠征に伴いローテンブルクにもたらされた[[聖遺物]]とされる[[聖血]]が置かれた。これが多くの巡礼者を引き寄せ、中世のローテンブルクは第一級の巡礼地であった。その当時は[[神聖ローマ帝国]]内の上位20都市の中に入っていた。市壁の内側の人口は約5500人で、これに加えて周辺の390平方キロメートルの領地の中に14,000人が居住していた。
 
[[1350年]]には皇帝から徴税権と関税権を認められ、この頃からローテンブルクは[[帝国自由都市]]とみなされるようになる。
 
[[1356年]]の[[バーゼル地震]]で古い城塞が崩壊した。今もなお聖バルシウス教会が残っている所である。その廃墟の切石は当時としては貴重な資材であり、市壁の建造に用いられた。
 
[[Image:Rothenburg Tauber-1648-Merian.jpg|left|220px|thumb|17世紀のローテンブルク]]
 
中世のこの町で最も有名な人物は、エネルギッシュな政策で知られた市長ハインリヒ・トップラー(1340([[1340]]頃生 - [[1408年]]没)であろう。[[1373年]]にはトップラーが市長に就任した(1408年まで在任)。ヤコブ教会の増築を決定。また[[1398年]]には聖ヤコブ教会の建設をドイツ騎士団から引き継ぎ、聖ヤコブ教会は市所有の教会となった。それと同時に、[[ゴシック]]様式の市庁舎の建設も始まった。[[1378年]]、ローテンブルクは[[ウルム]]を盟主とするシュヴァーベン都市連盟に加盟した。[[1400年]]ごろまでには、ローテンブルクは[[フランケン地方]]の中では[[ニュルンベルク]]に次ぐ第二位の人口を抱える都市となった。
 
1485年には、170年掛けて建設された聖ヤコブ教会が落成し、現在までよく保存されている。
 
[[1525年]]、[[ドイツ農民戦争]]において、ローテンブルクは[[フロリアン・ガイアー]]率いる反乱軍側につき、[[プロテスタント]]に改宗しようとしたが、最終的にローテンブルクの守将 Kasimir は降伏した。Johann Teuschlein ら反乱者が処刑された。
 
[[1544年]]、ローテンブルクは Johann Hornburg 市長の時代に遂にプロテスタントへの改宗を達成した。所謂[[宗教改革]]である。[[1559年]]にはプロテスタントの教会規則が公布された。聖ジョンの騎士団とドイツ騎士団だけが引き続き[[カトリック教会|カトリック]]を信仰したが、これらの騎士修道会もそれぞれの教会(聖ジョン教会、聖ヨハネ教会)への権利を手放さねばならなかった。
 
[[1572年]][[1501年]]に焼失した市庁舎の東側の再建が始まった。その後、30[[三十年戦争]]が勃発するまでの間、街は繁栄した。
 
[[1618年]]に勃発し[[1648年]]まで続いた[[三十年戦争]]の時代、ローテンブルクも戦費の負担や通過する友軍への便宜供与などを行った。[[1631年]][[1634年]][[1645年]]にローテンブルク付近で戦闘があった。
 
[[1631年]]10月に[[カトリック]]の[[ティリー伯ヨハン・セルクラエス]]が、[[プロテスタント]]の[[ルーテル教会|ルター派]]のローテンブルクに40,000人の軍隊の宿営を求めた。街はこれを拒否し、籠城して守り抜こうとした。しかしながら、ティリー伯の軍隊は300人の兵を失っただけで、間もなくローテンブルクを陥落させた。「街に火を放ち掠奪する」と脅したティリー伯から旧市長のヌッシュが街を救った成り行きは、現在も毎年開催される街の祝祭劇[[#催し物|『マイスタートゥルンク』]]の話の元になっている。
 
帝国都市連合は[[1632年]]-1634年にかけて[[スウェーデン]]と同盟した。1634年には[[ペスト]]の大流行によって多くの死者が出た。1645年に[[フランス]]の軍隊に占領された。[[1650年]]に最後の兵士が街を去ると、この街にはもはや財産も権力もなくなり、ローテンブルクの街の発展は停滞し、街はその重要性を失っていった。これは、街が[[17世紀]]のままの状態で保存された理由である。
[[Image:Rothenburg ob der Tauber um 1900.jpg|left|220px|thumb|1900年頃のローテンブルク]]
 
[[1688年]]の[[大同盟戦争]]では、フランスの侵攻を受けてドイツ側の軍隊(Landwehr)は大損害を受けたがローテンブルクは占領されなかった。街の再建は[[18世紀]]まで続いた。
 
[[1793年]]の[[フランス革命戦争]]もこの地に大きな騒乱をもたらした。この頃、既に[[アンスバッハ侯領]]と[[バイロイト侯領]]を引き継いだ[[プロイセン王国]]はローテンブルクとの間で国境を画定する合意書に署名している。この事は、ローテンブルクのような小さな帝国都市であっても、その独立性を認められていた事を意味している。
 
フランス革命戦争では[[オーストリア]]軍および[[帝国クライス]]軍がフランスに敗北した。この賠償のために[[神聖ローマ帝国]]はライン川左岸地域を[[フランス]]に割譲する事となった。このとき[[神聖ローマ帝国]]が失ったライン川左岸地域の領土を領有していた諸侯に対しては、残っている神聖ローマ帝国領を再分割して領地を補償する事となり、そのために招集された[[帝国代表者会議主要決議]]において[[1803年]]に決議が成立した。この決議により、500年にわたる独立都市としての歴史を持つローテンブルクは、その意思に反して[[バイエルン選帝侯|バイエルン]]領に併合された。帝国の負債のため、バイエルンは多くの公共建築物や土地を売却した(例えば現在の教会広場となっている牛乳市場の Marienkapelle や、Stauferburg の大きな塔など)。[[帝国クライス]]会議の代議士を勤めた名門の家系も土地を失い、von Stadt 家を除いて他所へ移って行った。
 
[[1806年]]には[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の圧力により、フランス主導で[[バイエルン王国]]が成立。同時に[[ライン同盟]]に加盟し、フランスの影響下に置かれた。ローテンブルクは辺境地帯となり、経済危機はさらに悪化した。
 
[[1813年]]にはナポレオン敗退によりライン同盟は解消、[[1815年]]の[[ウィーン会議]]によりバイエルン王国はオーストリアを盟主とする[[ドイツ連邦]]に加入した。
 
このドイツ連邦も、[[1866年]]の[[普墺戦争]]の[[プロイセン]]勝利をもって解消された。[[1871年]]に[[ドイツ帝国]]が成立すると、バイエルン王国もドイツ帝国に組み込まれた。また、[[1873年]]には[[鉄道]]が開通した。これらの理由によりドイツ帝国内からの旅行が容易になり、次第に観光客が増え始めた。また工業化(乳母車工場など)も進め、経済は回復を始めた。
 
[[1880年代]]になると、[[ロマン主義]]の画家らによってローテンブルクが再発見され、[[イギリス]]やフランスからも人気の観光地となっていった。街並みに大きな変更を加える事を禁ずる法律が作られた。[[第一次世界大戦]]前には、現在も存在しているホテル・アイゼンフートに滞在するバスツアーまであった。
 
[[ヴァイマル共和政|ヴァイマール共和国]]時代、この都市とその周辺の選挙区は、[[国家社会主義ドイツ労働者党|NSDAP]]支持者の多い地区となり、[[1933年]]の選挙でこの政党は80%もの票を獲得した。
 
[[第二次世界大戦]]の終戦直前の[[1945年]][[3月]]、ドイツ軍の兵士がローテンブルクに駐屯して街を守備していた。[[3月31日]]、ローテンブルクは、16機の[[アメリカ空軍]]機の爆撃を受け、39人が死亡し、306軒の家屋、6つの公共建築物、9つの望楼、そして市壁が600mにわたって破壊された。これは、保存されていた建造物の約40%以上を占める旧市街東部が損傷または破壊された事になる<ref>http://www.rothenburg.de/d/ISY/index.php?get=2351&exec=webprintable1 参照</ref>。この爆撃作戦の本来の目標は、[[オーバーフランケン]]の[[エーブラハ]]であったが、霧に覆われていたため攻撃できず、このため代理の目標として、軍事的な意義などないにもかかわらず、ローテンブルクが攻撃されたのであった。損害の大部分は、旧市街でも比較的新しい地域であったため、最も重要な記念建造物は、被害を免れた。後に質問されたパイロットは、自分たちが文化遺産都市を爆撃していることにまったく気づいていなかったと答えている。
 
かつての米国陸軍副長官[[ジョン・ジェイ・マックロイ]]は、文書で以下の証言を行った。ローテンブルクへの進軍に際して、デーヴァーズ将軍の部隊による砲撃が計画されたのだが、これを阻止したというのである。彼は、戦前にこの街を訪れ、この中世都市に魅了された母親の話で、この街を知っていたのだという。ドイツ軍守備隊長のThommes少佐は[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]の「全ての街は最後まで戦え」との命令を無視し、降伏した。これによって、砲撃による街の完全破壊は免れた。[[4月17日]]、ドイツが降伏する3週間前に、米軍が街を占領した。
 
戦後、街は旧態に忠実に再建された。全世界から再建のための寄付が寄せられ、アメリカからも多額の再建資金援助を行っている。この時の寄付者の名前は、市壁の内側通路に掲示されている。