「隠岐騒動」の版間の差分

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==騒動の概要==
隠岐国住民達は従来より[[尊王攘夷]]志向が強かった。
隠岐国住民達は[[尊王攘夷]]を重視していた為、当時の儒官・[[中沼了三]]を初めとする尊王攘夷派が尊王攘夷の拠点の「文武館」(現、[[奈良県立十津川高等学校]])の設立を願い嘆願書を[[松江藩]]に提出したが取り下げられ、残った[[神官]]・[[庄屋]]達が[[京都]]へ[[徳川慶喜]]への[[直訴]]をしようと京都に向かうが、[[長州藩]]の取り調べを受け退却した。だが直訴状が[[隠岐国]][[郡代]]に渡っていた為、激怒した神官・庄屋達は隠岐に帰り、「[[王政復古]]で隠岐は朝廷御料になった」と宣言して隠岐国郡代追放を呼びかけた。
同様に尊王志向の強い[[十津川]]では「文武館」(現、[[奈良県立十津川高等学校]])という学校が儒者[[中沼了三]]により設立されていた。
これを知った中沼の弟子の中西毅男は同名の学校設立の嘆願書を同士七十三名の連署を得て、新任の郡代である山郡宇右衛門に願い出たが取り下げられた。
[[慶応]]4年([[1868年]])2月、[[神官]]・[[庄屋]]ら島民有志が[[京都]]へ[[徳川慶喜]]への[[直訴]]をしようと京都に向かうが、本州上陸後、[[長州藩]]の取り調べを受け[[王政復古]]がなったことを知り退却した。
また、山陰道鎮撫使総監[[西園寺公望]]から隠岐国の庄屋方へ宛てられた書状を、山郡が庄屋らに渡る前に開封したことが露見する。
これらを受けて3月15日島後の庄屋職が会合で郡代の追放で衆論がまとまると島前の庄屋らにも参加を求めた。
 
そして隠岐3月19日早朝島後・島前の住民およそ3000人が集まり隠岐郡代の陣屋を急襲し陣屋を乗っ取って、山代のは隠岐から追放を行いされ隠岐施政機関としての総会所が陣屋設置され、島民による自治政府を立ち上げが開始した。
 
==騒動のその後==
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